Kの思索(付録と補遺)

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映画「勝手にふるえてろ」の割とまじめな感想・解説〜Kの思索(付録と補遺)vol.24〜

 この記事は、映画「勝手にふるえてろ」を観る前の読者(ただしネタバレあり)、もしくは、観たけれども意味が分からない・演出が謎・カルトくさい・結局何が言いたかったの?・・・等々の思いを抱いた人向けに描いております。

 

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 この映画のヒロインであるヨシカは中学生の頃に抱いた恋心を今も抱え続けて、10年以上も同じ男性を片思いしているボンクラ女子。ただし外出するときの服装とかはそれなりに気を配っているという女性的なバランスが、嫌なあざとさの発生を防いでいて、流石、女性監督だなと思います。普段はモカシン履いてるけど、ここぞというときにはきちんとパンプス履いてドレスにするとか。つまり全てを投げ捨ててるわけではなく、靴の脱ぎ方とか、一人部屋での生活態度とかの所作にボンクラ感がでるという描き方は共感を呼ぶ上で非常に正しい。要はどこにでもいる普遍的なボンクラ女性なのです。

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 そんな彼女が10年以上片思いしている男性は本名「一宮」くん。ヨシカは彼のことを、本名の「一宮」から数字を拝借して「イチ」と呼んでいる。このイチとヨシカは中学校卒業以来それっきりで、イチが今どこで何をしているかをヨシカは全く知らない。

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 そんなボンクラヒロインのヨシカに対しても恋心を寄せる男性があらわれる。それが霧島くんだ。霧島はヨシカからウザがられており、彼女からは2()と呼ばれている。これは言うまでもなく、ヨシカの恋する「イチ」に対して、2番目という意味を持っている。

 

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 このヨシカとイチと二をめぐる三角関係が非常に独特な演出と構成で描かれるのが本作の魅力なのですが、このことによって受動的にのほほんと見れるタイプの映画では全くなく、能動的に物語から情報を読み解くことを要求してくるタイプの映画になっており、はっきり言ってすごく上級者向けです。

 

 というのは、ほぼすべてのシーンに何らかのメタファーが隠されていて、それを読み解くことで本当にヨシカに感情移入でき、ひいてはこの映画全体のメッセージのやさしさに気づき、そういう人だけがこの映画に感動できるからです。要するにわかりやすい感動演出はしてくれません。能動的に、自ら情報を積み上げたものだけが、他の人が笑っている中で号泣してしまっているというような映画なんですよ。

 

 例えば二がヨシカに馴れ馴れしく話しかける場面があります。二はヨシカから赤ペンを借りるのですが、それを返す時に、赤ペンをもともとあった場所になかなか返せないんですよ。カチャカチャと赤ペンを返せないという無駄な時間が経過していく。ヨシカから二はウザがられているので、そこだけ切り取ると「あーこの空気感にいたたまれないのかなー」なんて感じに済まされてしまうような、なんてことないシーンなんですけども、じつはこの赤ペンを返せないという所作だけで、馴れ馴れしく振舞っている二の行動も「偽り」であり、彼は恋する彼女に直に接して本当はすごく緊張しており、ヨシカに話しかけるという行為に胸が張り裂けそうだという震えを表現していたりするのです。

 

 しかもそんなことをしてるもんだから、その赤ペンは結局先が折れてしまいます。これも二のヨシカへのファーストアプローチが失敗したこと、そして今後のヨシカと二の関係性の不穏さを暗示するメタファーにもなっているのです。

 

 んで、この話はかなり初盤なのですが、なんでそんな初盤のうちから、赤ペンが返せないというそれだけの行為が、上記のようなメッセージを含んでいると分かるのかと言えば、そもそもヨシカが10年恋心を抱くイチとおめでたくも結ばれるような結論になんてなるわけがないからです。もしそんなことがあるとすれば、彼女に密接に接する男性登場人物はイチだけで事足りるはずで、わざわざ二を登場させる意味が塵ほどもなかったことになり、ごみ映画として吐き捨てることになっていたでしょう。

 

 また二がヨシカにとって決定的に重要な男性であることが表現されたのは、会計伝票の数字をヨシカだけが理解していたあのシーンでしょう。ヨシカは同僚の女性「クルミ」から、会計伝票の数字が「1なのか2なのか読めないんだけど、読める?」と聞かれます。ヨシカはこれに対して「ん~1・・・いや、これは2だね」と答えます。いうまでもなくこれは、イチと二の両者の男性に対するヨシカの先行きを決定的に暗示しているわけです。

 

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 さらに言えば、この映画で初めて(不完全ながらも)虚構でない自然なコミュニケーションが成立するのは、ヨシカと二が会話するシーンなのですよ。これで決定的に二の存在が重要であるとわかります。

 

 虚構でない自然なコミュニケーションと言いましたが、ヨシカと二との会話が起こるそれまでも、一応ヨシカがカフェの店員などに話しかけていて、カフェの店員も返答はするのですけど、その様子がおかしいんですよ。というのは、一応ヨシカとカフェ店員がコミュニケーションしているのだけど、まったくもって成立するはずのない虚構のコミュニケーションが成立してしまっているのです。例えるなら、ヨシカを含めた世界の全員がADHD(≒発達障害)を患っていて、それにも関わらず、ヨシカが誰とでもスムーズにコミュニケーションをとることに成功してしまっているというような違和感があるのです。

 

 言い換えると、ヨシカのモノローグのような長い独白ともいえる会話に対する相手の返答・理解が良すぎるんですよ。普通なら「何言ってんのかわかんないんだけど」と返すようなところを、ヨシカの会話するあいて全員が「そうね、素晴らしいことだわ」と理解を示すのです。この明らかな違和感を能動的に読み解く人なら、この違和感の正体に早い段階で気づくはずです。

 

 すなわちこの、ヨシカが二と話すまでの違和感ある会話すべてが虚構であり、ヨシカの作り出した妄想の世界であるということです。だからこそ、まるでヨシカが「一人舞台」を演じているような違和感を感じるのです。このことに早い段階で気づくのがこの映画では決定的に重要になってきます。

 

 というのも、上記してきたようなヨシカの一人舞台が「二人舞台」になるシーン(まずはヨシカと二の会話でしたが)、それがもうひとつ訪れるからです。それがまさに、ヨシカとイチが初めて会話するシーンなのです。ヨシカとイチの二人舞台は、ヨシカと二の二人舞台とは全く意味が違います。このことはもう少し後にならないと説明できません。とりあえず今はこのことだけ頭に置いといてください。

 

 そもそもヨシカは、中学生時代からイチとは目も合わせることが出来ない乙女な少女でした。対するイチはクラスの人気者で、根暗に教室で小さくなっている自分には到底届かない存在として、あこがれていました。

 

 しかし実はイチはイジメられていたのです。ヨシカの恋心フィルターでは皆から注目される王子様というようにイチが写っていたのですが、現実的にはイジメられているからこそみんなから注目されていたのでした。イチの「自分の意志に反してちょっかいかけられたら、それはもうイジメだろ」というセリフも、いじめと遊びの曖昧で危険な境界を定義したと言えるでしょう。

 

 つまり、方向性は違えど、イチとヨシカは同じマイノリティ(社会的少数者)な存在だったのです。んで、同じマイノリティだったからこそ、イチはヨシカの存在を知っていた。イチの「誰もが自分を見る中で、一人だけ自分を見てなかった」という、ヨシカのことを語るセリフが上記したことを美しく表しています。

 

 そんなイチとヨシカが初めて会話するシーンは、それまで虚構だったヨシカの一人舞台としての世界が、シームレスにイチとの二人舞台という現実世界へと移るという、とてつもない技巧が見事に成立するこの映画の第一のクライマックスです。

 

 しかしそんな中、イチがヨシカに対してぽろっと「君と話していると、まるで自分と話しているみたいだ」と言います。これまでの文脈を真に理解してきた読者なら、このセリフが如何に不穏なものか分かるでしょう。自分と話している、というのはこの中盤までずっとヨシカがやってきたことなのですから。つまり、ようやく二人舞台の世界が開かれたと思ったのに、本質的にはその逆のいまだ一人舞台であって、とりもなおさずまたあの孤独な世界に引き戻されかねないという不穏を感じるはずです。

 

 この予感は的中することになり、ここからイチは「あの時、君と『友達』になっておけば良かった」というセリフを突きつけた後、ヨシカに対して「君」を連発します。たまりかねたヨシカは、イチに対し「あなたは人のことをいつも「君」って呼ぶの?」と本質に踏み込んだ問いを投げかけます。そしてイチから「えっと・・・ごめん、君の名前なんだっけ」と問い返され、ヨシカの両思いだったかもしれないという淡い希望は粉々に打ち砕かれるのでした。

 

 しかしこれはある意味因果応報的なつくりになっています。なぜなら、ヨシカは「霧島」君のことをずっと「二」と呼んでその本当の名前を軽視し続けてきたのですから。自分が好意を抱かれる側の時は相手を軽視して、それと同じことをヨシカが好意を抱く側となった時に、その相手であるイチから突きつけられたのでした。まさに因果応報です。

 

 さてこのあとヨシカは画面に向かって歌い出し、急にミュージカルっぽくなります。もちろん登場人物が歌を歌うというのは映画全編を通してもこのシーンだけであり、かなり浮いていて不自然で、強い違和感を覚えると思います。

 

 しかしここでミュージカルになるのは2つの必然性があります。一つは、ヨシカがまたあの違和感ある、虚構的な、一人舞台の世界に堕とされたことを表現するという必然。もう一つは、そもそもミュージカルが、言葉では到底表現しきれない激しすぎる感情を音楽に乗せることで、その感情を出来る限り伝えようとする試みであるということからくる必然です。よってあの状態でヨシカが歌い出すのは一見不自然ですが、映画的文脈の上では必然なのです。

 

 さてそんなヨシカは自分の部屋に戻ってきて号泣します。この「部屋」というのも、この作品にとって非常に重要な舞台装置になっています。というのも、この部屋はただの部屋ではなく、ヨシカの自己・内面世界を暗示するものだからです。だからこの部屋にはヨシカの好きなものーーーしかもそれが一見すると普通でないもの(代表的なのはアンモナイトの化石)ーーーがインテリアになっていたりするのです。ヨシカがこの部屋を出ることはすなわち単なる外出という意味だけでなく、もっと精神性のあるメッセージが含まれています。逆にヨシカが他人を部屋に絶対入れようとしないのは、彼女が他者に心を開いていないことを意味します。上記のことは、この映画の二とのクライマックスで決定的なメッセージになるので覚えておいてください

 

 さて、イチに名前を憶えられていなかったということで結果的に失恋することになったヨシカですが、そんなことはつゆ知らず、積極的に二がアプローチをかけ続けてきます。最初はウザイなと思っていたヨシカも、ここにきて唯一、二だけがヨシカのことを本当に見ていることに気づいて、優しい気持ちになるのでした。もちろん、二がひたすらヨシカの名前を連発したことが決定打になったのは言うまでもないでしょう(笑)

 

 ここでヨシカとイチが暗闇のなかで卓球をするというシーンが差し込まれます。ここも人によってはよくわからない演出だと思うかもしれませんが、このシーンは僕が劇中もっとも涙してしまったシーンでもあります。よって以下の段落はかなり感情的な解説になってしまいますが、つまりこういうことです。

 

 結局ヨシカにとってイチは決定的な存在で、失恋してもなお心から「1番」として消えることはない存在だ。それに対して恋心を寄せてくれる二は優しくて今の自分を救ってくれるけど、それでも「2番目の人」であることには変わりはない。理想は叶わず、現実としてはそういう人と結ばれるという事実。そういう妥協。諦念。でもそれってそんなに悪いことだろうか?そもそも人生が上手く行ったためしなんてないじゃないか。一番を取ったことなんてないじゃないか。もしかしたら、いまは2番かもしれない彼も、これから決定的な一番になっていくかもしれないじゃないか。それに私は今は笑っていられる。それが希望を直感している証ではないか。

 

 だから暗闇なのです。暗闇だけれども、その中に花火が光るのです。そして卓球というやりとり、即ち「2人舞台」・・・ついに自己ではなく本当の意味で他者との、しかも無言の(!)コミュニケーション。言葉を交わすことなく、心で通じ合った真のコミュニケーション。暗闇の中で卓球をするという映像表現に詰め込まれたテーマ性。これを理解したなら泣かずにはいられないのです。

 

 ですが、ある一件をきっかけにここからまたヨシカが二と険悪なムードになり、距離を置くことになります。ヨシカは職場を休むことになり、部屋に閉じこもります。部屋というのは前述したようにヨシカにとっての内面世界ですので、ヨシカはここでついに世間的にも内面的にも決定的な孤独に陥ることになります。

 

 この映画のクライマックスは、そんな閉ざされた彼女の内面世界である「部屋」に、二が足を踏み入れる場面です。ここにきてようやく、前述しておいたイチに対するヨシカと、二に対するヨシカの決定的な違いを明らかにすることが出来ます

 

 つまりイチに対するヨシカは、本質的には2人舞台ではなかった。何故なら「自分と話しているみたい」だから。イチに対するヨシカの好きという感情の行く末は、ともすれば結局のところ自分と本質的に似通っているから上手く行くかもしれないという性質のものであった。それは結局のところ、他者が好きなのではなく、自分が好きであるという不健全さでもある。そもそもヨシカはイチに対して決定的に一目ぼれで、彼の内面の事なんて全く知りもせずに一方的に好意を抱いて理想化していたのであった。

 

 対して二とヨシカは、完全にお互いを他者として認識している。二もヨシカもお互いに対して「自分と話してるみたい」とは絶対に言わない関係だ。だから彼らはクライマックスで喧嘩をする。さぁ、喧嘩というのはコミュニケーションが健全に取れていない状態なのだろうか?いや、今回のクライマックスではそうではない。なぜなら両者とも本気でお互いを知ろうとしているからだ。特に二は、相手に不満をぶつけながらも「好きだ」ということは一貫して言う。伝え続ける。見た目は喧嘩かもしれないが、他者と他者とが本気で自己の内面ををぶつけあって、お互いを知ろうとする営みなのである。これほどまでに健全で、純粋で、尊いコミュニケーションがあるだろうか。

 

 ヨシカはこれまで一人舞台で、自分の醜い心を自重ぎみに独白してきた。しかしヨシカの内面世界である部屋に、二が入り込んで来たことによって、初めてヨシカは自分の本当の内面を他者にぶつけて自分を理解してもらおうとするのだ。

 

 ーーーヨシカは二から誕生日プレゼントに赤い付箋を貰っていた。これは二がヨシカを意識することになったきっかけになったものだ。

 

 ーーーヨシカは自分の部屋で二と喧嘩する前に、その付箋を自分の胸につけていた。喧嘩のクライマックスでその付箋がヨシカの胸から剥がれ落ち、雨でぬれた二のワイシャツに落ちる。

 

 ーーーヨシカから剥がれ落ちた赤い付箋は、雨でぬれた二のワイシャツの水分を吸い、徐々に、徐々に、吸い付くようにして二へと貼りつく。

 

 この素晴らしいメタファーをいちいち解説するのはもはや無粋というものでしょう。例えるなら、あまりに美しい詩に対する解説が、詩そのものの以上の表現となることなく、むしろ言葉を紡ぐほどに価値を落としてしまうことと同じです。

 

 最後にヨシカが二に対して勝手にふるえてろ」と言ってキスをし、切れ味よく映画は幕を降ろすのでした。

 

 さて、見てない人向けにも分かるように書いたつもりですが、どうだったでしょうか。ネタバレをさけることは流石にできない映画なんで、殆どストーリーを追う形にはなってしまいましたが、それでも見てみよう!となるような記事にしたつもりです。また意味不明で変な映画だと感じていた人も、この記事を読んでもう一回見てみよう!となってくれれば本望です。僕にとっては、今年の恋愛映画の地位を確立した一作になりました。是非劇場に足を運んでみてください!