Kの思索(付録と補遺)

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知性あるものの宿命と、それに対する処世術について〜Kの思索(付録と補遺)vol.23〜

 知性のある人間は、じつは知性のない人間よりも不幸を感じている場合が多い。何故なら、彼らは本質的に孤立する宿命にあるからである。この孤立する宿命については後述するが、彼らは加えてその孤立の苦しみから哲学し、この人生が何であるかを凡人よりも高度に知ってしまう。これによって、この長い人生の全般が、少なくとも希望あふれる輝かしいものではないと諦念する。何故なら彼らはその人生の長さと、これから待ち受ける困苦の多さを現実に起こりうることとして、いちいちと言っていいほどの頻度で、しかもまざまざと捉えてしまうからである。これによって、彼らは何がなくとも、なんとなく憂鬱になる。故に知性のある人間は、大半が憂鬱質であると言える。

 

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 ※画像は死刑を受けた知の大巨人ソクラテスが毒杯を飲むところを描いた有名な絵

 

 このように知性のある人間は将来を思って悩む傾向にある。どうなるか分からないはずの将来なのだが、彼らはその知性の高さ故に、起こりうる未来の可能性が全て、いま手にしている現実かのように想像できてしまうのである。

 

 これに対して動物のように、知性のない人間は「いま、ここ」のことしか考えられない。動物には未来という概念を捉えることが出来ないから、知性のない人間も同じように、いまここに現実としてある「確かに実感できるもの」以外は捉えられないのである。

 

 しかし数多くの幸福論が明らかにしているように、「いま、ここを生きる」というのは幸福にとって非常に肝要なことなのである。何故なら人間は、不安や恐怖そのものに苦悩するのではなく、「いつか来るべき」不安や恐怖を想像して苦悩するからだ。むしろ訪れた危機そのものの渦中にある中においての人間は、その危機を解決するべく必死に奔走し、その時には「いま、ここ」にしか意識が向かないので、あまり不幸を感じないものだ。不幸を感じている暇がないと言えばこのニュアンスが正確に伝わるかもしれない。

 

 つまり、苦悩に押しつぶされそうな人間は、その原因として「退屈」に陥っている可能性もあり、その退屈ゆえに将来のことをひたすらに考えてしまい、結果として苦悩していることがある。彼らに有効な第一の処方箋は忙しさの中に身を置き、悩む間もなく忙殺されることかもしれない。幸福論一般については以下の記事にまとめてある。

yushak.hatenablog.com

 

 さて話が少し幸福論にそれたが、このように、知性のあるものは現実に起きていることそのものだけでなく、起こりうる将来のような「概念」、言い換えると、現実よりも「抽象」を捉える能力が長けているよって彼らは現実に起きていることにあまり興味を示さない。これにより知性のあるものほど現実的な「生活」や一般的な「常識」を備えてないことが多いのである。しかも彼ら知性のあるものは常に思索を巡らせ、ありとあらゆることを日頃から疑っているので、上記したようないわゆる世間離れを加速させることになる

 

 このことによって彼らの会話は「いついつどこどこに行って、何々をした」というような具体的で現実的なものにはならない。知性のある人間はこのような会話に退屈を覚える。知性のあるもの同士の会話はむしろ抽象的で一般的な概念を導き出そうとする哲学的な営みに終始する。

 

 このことから、会話というものがそもそも、同じ知性レベルの持ち主同士でしか快適には成立しえないことが分かる。知性のあるものが知性のないものに話しかけても、知性の無いものはその話題の抽象性により退屈を覚えるし、その逆に、知性の無いものが知性のあるものに話しかけても、知性のあるものはその話題の一般性・真理性の少なさに退屈を覚えるだろう。

 

 一般的にこのような「知性」はインテリジェンスと捉えられ、「頭のよさそうなことを話す人」として尊敬を受けると思われるかもしれないが、それは大きな間違いである。むしろ知性のないものは、このような「知性のある様子」を敏感に察知し、嫌悪し、嫉妬し、小馬鹿にする傾向にある。このことは、知性が、金や地位よりももっと決定的に、生まれながらにその人物に備わるものであり、決して後天的に得られるものではないことに由来する。成人するまで思索型ではなかった人間が、将来的に思索する人間になることは決してない。断じてない。思索型の人間は、早くも中学生のころから自身の生について考えているものだ。これが若さ、経験不足、思慮の浅さ等々によって中二病」と呼ばれる人間になって表れるのである。しかし同時にこのことによって、中二病を一度でも重く患った人間は将来的に、後世に残る重大な作品を残す可能性を秘めていると言える。

 

 この知性というものの圧倒的な価値の手に入らなさにより、知性のないものはそれを本質的に、無意識的に嫉妬するのである。よって知性あるものが知性ないものに感じるイラだちより、その逆の、知性のないものが知性のあるものに感じる劣等感、嫉妬心、憎悪等々の感情の方が3倍は強いことを覚えておくべきなのである。

 

 このために、馬鹿だなと思う相手には論破しようとせず、逆にへり下らなければならない。なぜなら知性のあるものが彼に何を言おうと、それは彼の知性のなさを指摘する行為となってしまうからである。彼らには手に入らない圧倒的な価値を、その目の前で見せびらかしているようなものだ。しかもこの世の中は、知性のあるものより知性のないものの方が圧倒的に多く、数の暴力によって知性あるものが排除される行為がたびたび行われてきた。だから彼らにはへりくだることが最適な処世術なのである。その間、知性のなさに対して自分は喜劇を演じていると思ってやり過ごすのが最もよい

 

 前述したように、知性のないものは、ある程度抽象的な話になったとたん興味を失って、瞼が落ちかけ、話が終わる頃には、まるで寝ている人に話しかけた後かのように「ん?何か言ってた?」という返事しかできない。そのくせ、自分の自尊心を傷つけられるような発言は患部を触られるかのような敏感さで察知するのだ。

 

 知性のないものはそのような存在なので、知性のあるものは決して自分の知性を彼らに見せてはならない。ひたすらに馬鹿を演じるのだ。能ある鷹は爪を隠すものだ。そうすれば一般大衆の「お仲間」にはなれるだろう。彼ら知性のないものの自尊心はこれによって満たされ、気持ちよくなってくれることだろう。ただし、彼らが賢者に対し、その平穏を脅かすような行為を仕掛けてきた場合、決して容赦してはならない。彼らは「動物」なので、一度自分の圧倒的な優位を確認し「こいつは好き勝手にしてもよい存在だ」と覚えると、その下劣な行為の程度は際限なく高まっていくからだ。これがあらゆるイジメの起源である。動物は適切なタイミングでしっかりとしつけなければならないのだ。

 

 すこし過激な話になってしまったが、結局のところこれも一時的な処置で、ついにはそういう知性を隠したお付き合いに嫌気がさし、知性のあるものは必然的に孤立を選ぶだろう。この記事の最初に、「知性あるものは孤立する宿命にある」と書いたが、ここにきてようやくその意味を明らかにできた。

 

 このようにして、前述したようにそもそも知性のあるものは、同程度に高度な知性を持ち合わせた人間としか分かり合えないそうでないと、そもそも会話が成立しない。故にずば抜けた知性の持ち主ほど、孤立する傾向にある。だから彼はチームワークに向かず、ときおり協調性がないなどと批判される

 

 上記のことから、知性あるものが作った仕事や創作は、凡人に見せると悲惨な結末を迎える。何故なら凡人には、崇高なる彼のアウトプットから、その裏側にある膨大な考察、推敲を感じ取れないからだ。凡人は、賢者の提出してきたものに対して、何がどうなってこのアウトプットが出てきたのか理解できないだろう。故に、凡人は賢者に対して、凡人である自分の知性レベルに落とすような訂正を要求する

 

 そうして賢人は凡人の知性レベルに合わせた訂正を渋々することになる。幾度となくそのような訂正をし、長い凡人との戦いの末、最後には一番最初に自分が考えたアウトプットと限りなく近いものが出来上がるのである。もちろん凡人は最初に賢者が出したアウトプットのことなんて覚えているはずもない。

 

 つまり、賢者が一瞬で到達した結論に凡人が到達するには、何ステップか踏まなければならないのである。しかしそれでも決して凡人を論破しようとしてはならないのは前述した通りだ。彼らには、一歩ずつ、ゆっくりと思考を進めることしかできないのだから。賢者はそれをもどかしく感じながらも、自分のとっくに出した正しい結論に凡人がたどり着くのをじっと待つのだ。

 

 この点で、真に知性のあるものが仕事や創作をする場合、他人からの訂正やチームワークの要求が、とてつもなく彼の足を引っ張ることがある。だからこそ、繰り返し言ってきたように、彼はその知性の高さ故、本質的に孤立する道しか残されていない。だから彼の人生は、孤立してなお、世の中に価値あるものを生み出せるかが鍵となる。さもなければニートになるか、ホームレスになるか、生活保護になるかだ。そうして彼の意志を刺激するものが次々と失われ、遂には酒や薬に頼ることになる。傑出した人物の人生ほど、このような転落の危機を常に帯びているのである。

 

 意志を刺激すると書いたが、もともと知性あるものにとって、日常の中で真に自分を刺激させてくれるのは、自分を超える圧倒的知性の持ち主だけである。しかしこのような神の如き人物は彼の周りにいないどころか、下手をすると彼のこれまでの人生においてすら出会ったことがない可能性がある。よって彼は歴史を遡り、過去の大賢者を師と仰ぐだろう。そうして過去の大賢者の思索に対する勉学や研究や創作や仕事に明け暮れた彼の生み出した作品が、ついには後世の悩める知性の持ち主に発見され、同じように彼が師と仰がれるような日もくるかもしれない。