Kの思索(付録と補遺)

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幸福の一般論 傑出した人物の幸せには共通の見解がある 〜Kの思索(付録と補遺)vol.22〜

 

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 人類はその長い歴史の中で、あらゆるだれもが「幸せ」について考えてきた。その中でも卓越した賢人が、凡人には表現することが不可能な思想を残してきた。凡人が一般にモヤモヤと思い描いている言葉に出来ないことを、賢人は明瞭簡潔な概念として表現し、凡人に「そう!そうなんだよ!それが言いたかったんだ!」と我が意を得させてきたのである。つまり、多くの凡人がモヤモヤと思い描いている共通の真理、それを賢人だけが明瞭簡潔に表現できるのである

 

 だからこそ、賢人の残した思想には強烈な普遍性がある。ゆえに「セネカ」や「アラン」や「ショーペンハウアー」等々偉大な人物の残した著作は、その強烈な普遍性によって今なお語り継がれているのである。

 

 面白いのは、それらの傑出した人物達が残している人生における「幸福論」に、ある程度の共通見解が見られるということである。この共通見解は、以降に述べるいくつかの要素から考察される。

 

 まず第一に、「他人からどう見られているか」という要素である。これは一般に名誉や名声、位階などが当てはまる。難しい資格を持っていたり、社長として働いていたり、弁論大会などで賞を貰ったりすると、彼らはこれにより尊敬を受けるだろう。もっと一般的に言うならば、例えば仕事が出来るか出来ないか、友達が多いか少ないか、人から嫌われているかいないかなどである。このような「他人からどう見られているか」という要素は、多くの人が幸福について考える上で、まず最初に浮かぶことではないだろうか。

 

 しかしながら、幸福を考えるうえで真っ先に浮かぶこの「他人からどう見られているか」という要素、これが実は幸せをつかむためには全く関係がない事柄である、とあらゆる賢人が述べているのだ。むしろ、「他人からどう見られているか」を気にする人間ほど、幸せからは遠ざかる運命にあると言われる。

 

 まず名声や名誉、位階を積み重ねると確かに多くの人から尊敬は得られる。しかし多くの場合、そのような「成功」はありのままの自分を束縛するものとなる。まわりを見渡しても分かるように、位階の高い職に就いている人は同時に、多くの責任を負う。この多くの責任によって「自分のやりたいこと」よりも「他人のためにやらなければならないこと」が必然的に増えてしまう。そうして成功を積み重ねれば積み重ねるほど、彼はその身に重い鉛を次々に乗せていくのである。

 

 鉛の重さで徐々に徐々に身動きの取れなくなっていく身体を自覚しつつも、彼はなお「この先に幸せがある」と信じて成功を積み重ねていく。そのうち彼は「成功」という高い山を登り、広く雄大な景色を見るかもしれない。しかしその時には、足元はすでに断崖絶壁であり、広く雄大な景色もすぐさま転落の恐怖にとって変わるのである。

 

 その結果、彼は悟る。名声や名誉や位階などは、結局のところ「自分」でもなんでもなく、「他人の評価」という装飾品で自分をベタベタと飾り付け、ありのままの自分を隠していただけだったのだ。いまや彼には、あれほどまでに欲していた煌びやかな装飾品が、ただ重いだけで身動きを取れなくするだけのガラクタに思えるだろう。このことを悟った賢人は世の中をみてこう言う。「なんと煌びやかで、私には必要のない装飾品が並んでいることだろう」。

 

 とはいえ、ここまで成功の極地に立たずとも、「友達が多いか少ないか」「人から好かれているかいないか」というような要素で悩むこともあるだろう。いわゆる「人気」という点だ。もちろん人気があることの幸せについて否定はしない。しかし危険なことは、この人気を得るために誰からも好かれよう、もしくは誰からも嫌われたくないと行動する人物ほど、他人から蔑まれ、軽視され、結果的に幸せから遠ざかるという事実である。

 

 誰からも好かれよう、誰からも嫌われたくないとする人物が結果的には嫌われ、幸せから遠ざかるという事実は、例えば次のような状況を想定してみると容易に分かる。すなわち、「意見の対立する二人の仲立ちにたった」というような状況である。

 

 意見の対立する二人に「お前はどう思うんだ!」と迫られた際、どちらにも好かれたい、どちらからも嫌われたくない、というような人なら思わず「どちらの意見も正しいところがあると思います」などと答えてしまうだろう。このような曖昧で、無責任でもある態度を表明すると、結果的に「どちらにもつかない」という態度と同じになる。これにより、対立する二人のどちらからも嫌われることになる。なぜなら、対立する彼らは、曖昧な態度を表明した彼に対して、どちらもこう思うからだ。

 

 「あいつは、おれをある部分では認めたかもしれない。しかし、ある部分ではおれの嫌いなあいつのことも認めたから、完全に信用はならない。

 

 このことからも容易に、万人に好かれることなど、まったく現実的なお話ではないことが判明する。だから、そのような対立する二人の正論の、どちらの立場に賛同するのか迫られた時は、決して態度を曖昧にしてはならない。必ず、自分はどちらにつくかを明確に宣言するべきだ。例えばAさんに賛同すれば、対立するBさんから嫌われることになるだろう。これを恐れてはいけない。

 

 結果としていつかは、社内や学校、それぞれの抱える社会政治によって、Aさん、Bさんどちらの意見が正しかったのかが判明することになるだろう。このときあなたが例えばAさんに賛同していたとして、Aさんの意見が政治的に「勝った」としよう。すると、あなたはAさんに引き連れられるままに勝者となるのであり、まったくもってめでたしめでたしということになる。


 しかし、仮に政治的にBさんが勝った場合でも、あなたはAさんからの信頼は得ることが出来る。二兎追うものは一兎も得ずとは正にこのことである

 

 ただし人間の本性を考慮した場合、とくに政治の渦巻く世界では「信用」や「信頼」などというものはもっとも当てにしてはいけないものである。少年漫画や青春小説のような、正義、愛、誠実を重んじる人ほど、残念ながら現実世界では利用されてしまう。もし、正義、愛、誠実さが重きを置く世界ならば、「処世術」は必要なかったのである。こんな例えもできる。「素手の人間に銃を突きつけて脅す悪人が、無条件に銃を降ろす道理はない」。このことについては下記の記事で詳しく解説しているので読んで頂きたい。

yushak.hatenablog.com

 

 このことにより、現実世界では「万人に好かれようとする人は万人に嫌われる」という命題の正しさが、いよいよ確信めいたものになったことと思う。それだけにとどまらず、もはや他人に対して、信用したり信頼したり誠実に対応すること自体が、危ない橋を渡りつつある行為なのだということが分かった。ドイツのことわざに「他人を重んじないものは重んじられる」というものがあるが、これは正に上記してきた思想を見事に表現していると言える。

 

 故に、「他人からどう見られるか」ということを気にする人間ほど、苦難の道を歩むことになるのである。むしろこの人生において、自分自身の価値だけを真に重んじ、「頼れるのは自分だけ」「自分が見聞きして判断した事実以外は、まずは全て嘘であると疑う」というような人間こそ、他人から余計な不幸を被る危険の最も少ない賢人であると言える。

 

 さて、他人からどう見られるかに興味を失った賢人は、次に自分の分かりやすい所有物に着目するだろう。すなわち、自分の持つ価値あるもの…もっと普遍的に言えば「財産」である。

 

 財産は幸福に関してそこそこに寄与するものである。科学的な裏付けとして、年収が高くなるにつれて幸福度も比例して上がっていくというデータもある。だがしかし、これも上記した「成功」の積み重ねの話と同じことではあるが、ありあまる巨額の富は、人の幸福度に殆ど寄与しないのである。先ほどの科学的裏付けのデータにしても、年収800万以上からは幸福度が年収と相関関係を持たなくなることが分かっている。

diamond.jp

 

 これは次の事実に基づく。すなわちありあまる財産をもつと、まずそれを失うのではないかという不安と苦痛を伴う。一億円を貯金している人間は、そのうちの5000万円を失っただけで自殺しかねない。冷静に考えれば、それでも5000万円を残しているというのは一般庶民にとって羨むべき立場であるはずなのに、だ。

 

 また、多くの凡人は財産を己の享楽のために使おうとする。このことで、所持する財産が増えれば増えるほど、凡人はその財産を使いたいという欲求が湧き上がってくる。自分の財産量に比例して大きな欲求が生まれてくるのだ。これによって、凡人はいくら財産を持っても、この比例した欲求の強さによって、幸福度が相殺されることになる。このことにより、生活度を上げてもある段階から幸福度は頭打ちになる。一方で、何らかの運命のいたずらにより生活度が下がった場合、それはそのまま自分の欲求が満たされない苦痛と、将来への不安になって襲いかかる。全くもって「貧するに満足する」ことがいかに重要なことが分かる。

 

 人類史上最高レベルの賢人である釈迦は、仏教において「人間の悩みは全て欲から生まれる」と説いた。つまりこれが欲しいとか、こうなりたいとかを欲すること、言いかえれば自分自身の生きんとする意志、これが人間の苦の源となるのだ。これは誠に真理である。

 

 人間の生きんとする意志は、いつも欲が満たされない苦悩と、それが満たされたあとの退屈の間を行ったりきたりしている。人間の生きんとする意志は、そのような苦悩と退屈の振り子運動である。この振り子運動は苦悩があっても続くし、苦悩が満たされたあとの退屈があっても続く。すなわち、生きんとする意志を否定すること、欲を捨てることをしない限り、振り子運動は果てしなく続いていくのだ。この振り子運動が止まらない限り、真の幸福はない。このことから真の幸福とは、何も望まないことによって、精神が絶対的な静寂を得るということに尽きると言える。このような生きんとする意志の否定に関しての哲学は以下の記事に詳しく書いてある。

yushak.hatenablog.com


 というわけで、金を享楽に使おうとする凡人は、常に苦悩と退屈の振り子を大きく揺らそうとするので、いつまでたっても真の幸福、すなわち絶対的な精神の静寂を味わうことはない。凡人にとって退屈にも欲求にも心動かないというのは、三角の積み木の上に球を乗せ続けようとするアンバランスな行為を実現しようとする様にも似ている

 

 真の賢人であれば、完全に「貧するに満足している」ので、金に興味を払わないだろう。そもそも彼は、自分以外の所有物は全て飾りであり、生きんとする意志を刺激する要素はすべて自分を不幸へ導くものと悟っているのだから、地位も名誉も位階も財産も忌み嫌うだろう。例えこのような真の賢者でなくても、賢者の資質を帯びる者は総じて金に糸目をつけないだろう。もちろん享楽のために金を使うことなど絶対にしない。賢者の資質を帯びるものはいつも、金を享楽のためではなく、自分の精神の安定を守るための保険として所持するのみである。

 

 このことによって、賢者に残された幸福のための要素が、ついにこの自分自身そのものだけであることに気付いた。幸福はすべて自分自身の内面から生じるのであるというこの揺るぎない真理は、過去のあらゆる賢人が最も共通して悟ってきた幸福論でもある。

 

 最近流行ったアドラー心理学も、このような幸福論の立場に基づく。アドラー心理学は、何を言われようと、どんなことが起ころうと、自分自身の内面が幸福であると受け取れば、絶対的に幸福なのだと説く。さらに自分の感じている苦痛すらも、全て自分が「そうなりたくて」自ら苦痛になることを選択しているのだとまで言うのである。ここが正に、アドラー心理学が激しい賛否両論を巻き起こすことになった点なのだ。

 

 これは例えば「陰鬱な表情」をしていれば、「これ以上辛い私をいじめないでくれ」という意思表示になるので、ある種の自己防衛反応として、自分が自ら望んで苦悩を呼び起こしている、というような論理である。この意味で、アドラー心理学は心理学というよりも哲学に近い。この哲学を深めるには「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」を読むと良いだろう。

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 とはいえ我々には、「それ」を認めたくなくても、決定的に「それ」を確信してしまっている、ある一つの事実がある。「それ」とはすなわち、「自分は、どこにいっても何をしても、どんな経験があっても、本質的に自分自身からは逃れられない」という事実である。

 

 言い換えると、幸福の感じ方、幸福の度合いは、そもそも生まれながらに個人のDNAへ、その絶対量が規定されているということである。幸福のホルモンと言われるセロトニンの分泌量は個人個人であらかじめ決まっているのだ。さらに別の言い方をすれば、不幸を感じる人間として生まれ落ちた人間は、一生絶頂を感じるような幸福を得ることはないし、幸福を感じる人間として生まれ落ちた人間は、何もなくても常にそこそこ幸福に生きるのである。

 

 だからこそ万人に共通して言えることは、さっさとその幸福だとか不幸だとかいう両極端な思想を捨てることなのである。意志を否定した真の賢者はこの意味で、幸福も不幸も感じない精神の静寂こそ万人の「幸福」…この絶妙なニュアンスを、幸福に変わる表現として「福音」と表すのである。

 

 幸福な人間かそうでないかは生まれ落ちて決まっているといっても、もちろんある程度の幅で幸福度が上下することは実感しているだろう。だから、真の賢人のように意志を否定する道をとるのが難しくても、自分自身の中で最も幸福である状態を維持する、という努力をすることは可能である。

 

 幸福は全て当人の内面から生まれるものであるから、自分自身を常に快活な状態におくように努めることが、彼をもっとも本質的に幸福な状態にし続ける唯一の手段である。すなわち、幸福に恒久的に寄与する唯一の手段とは「健康」であることなのだ。この健康には心身の両方が含まれる。

 

 このあたり前のことが、あたり前のことすぎて、多くの凡人は見逃している。また見逃しているつもりはなくても、健康であることがあたり前の生活をしているので、他に自分を幸福にしてくれるものがあるはずだと思ってしまうのである。だから凡人はいつまでも「他人からどう見られるか」、すなわち名声や名誉や位階を求めたり、「自分が何を所有するか」、つまり必死になって財産を築こうとしたりして、幸福のためにもっとも肝心であるところの健康を蔑ろにしてしまうのである。

 

 人間は歳を重ねるにつれて、様々なものを失っていく。友と別れ、子供を社会へと送り出し、ついには同世代の人間があの世へと旅立っていく。退職して位階を失い、金を稼ぐこともなくなり、そもそも金を積極的に何かへ使おうという気もしなくなる。目の前に死が迫りつつあるというのに、どうして自分を飾るだけの所有物に興味が持てようか。いまやすっかり老人となった彼にとって重要なのは、この身が、心身ともに健康であることだけになる。これは相も変わらず上述してきた賢者の特徴である。老人が、たとえ凡人であってもみなそれなりに賢者の様相を帯びるのはこのためである

 

 若い時は目の前にあるのは圧倒的「生」、すなわち長く長く続くこれからの将来である。すなわちこの長い人生を、これからどうやって幸福に生きていくかを考える。そのために若者は、自分自身の幸福そのものである健康を、努力という形で犠牲にして、自分をきらびやかに飾るための所有物を求めようとする。そしてその苦労の大きさゆえに自殺を選ぶこともある。

 

 しかし人生も後半になると、目の前にあるのは圧倒的な「死」のイメージだ。今までは生が本質だと思っていたのに、生をより輝かせるために前へ手を伸ばし続けてきたのに、いまや生は自分の後ろにただ過ぎ去っていくものであり、代わって前から近づいてくる「死」のほうをより実感して生きるようになる。人生が果てしなく続く将来という幻想は剥がれ落ちて、死という逃れようのないタイムリミットを否応なく感じることになる。これによって若者ほど時間を無駄にし、歳をとるにつれ時間を貴重に使うようになるのである。

 

 とはいえ、自分が健康である、ということだけで満足している高貴な人間はそうそういない。しかし賢者とは正にそのような人物なのである。ゆえに賢者は、健康で苦痛も退屈もない状態であれば、それでよいのである。むしろそれがよいのだ。自分をそれ以上に楽しませる享楽や苦しませる努力などは、自分の精神面の静寂を邪魔するものであり、忌み嫌って然るべきものだ。賢人だけがそのような「閑暇」を満喫できるのだ。この事実は以下の記事の内容の正しさをより確証させることだろう。

yushak.hatenablog.com

yushak.hatenablog.com

 

 最後に賢者はただお茶を飲み、落ち着き、今の自分に苦痛も退屈も発生していないことを感謝するだろう。真にこのことを経験した人は、幸福とはかくもシンプルなものだったと気付いて福音を得るだろう。様々な人間が幸福論をあれこれと語るが、しかし真の賢者にとっての幸福とは、精神の静寂を愉しむことに尽きてしまうのであった。