Kの思索(付録と補遺)

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賢者の証について 賢者が人生に求めるもの、賢者への到達方法〜Kの思索(付録と補遺)vol.21〜

 賢者の唯一にして絶対の特性は、精神がいつも平穏であることだ。

 

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 ゆえに精神の平穏から離れるもの、すなわち酒、たばこ、薬、ギャンブル、風俗、自慰などのものから賢者は一切の距離をとる。しかし真に卓越した認識が意志を超越した精神の持ち主でしかこれは成しえない。

 

 だから賢者ほど、いわゆる「享楽」に関心を示さなくなる。享楽は精神に興奮を与えるが、それは終わった後に振り子のように退屈へといざない、結果として精神の平穏を乱すと悟っているからだ。賢者が金を欲する場合、それは大抵享楽の為ではなく、平穏を得るために使われる。

 

 だから本物の賢人は金に興味を持たないし、執着することがない。いわんや地位や名誉などというものにこだわるはずがない。むしろ本物の賢人は自分が積み上げた成功すら身重に思って捨てることがある。それは賢人は自分の内面、精神面の卓越だけが全てであり、それだけで人生を謳歌できるからだ。精神面の卓越が賢者の証となる。

 

 例え自分が賢者でないと思っていても、そういった精神の卓越性のようなものが全てDNAで定められているからといっても、そのように高潔であろうとする努力を放棄するのは「怠惰な理性」と呼ばれるものである。

 

 そもそも自分がどのような人間であるかを確信するのは一生の後半であり、人生の後半の豊かさを決定的にするのは人生の前半であるから、若くして自分は所詮こんなものだと諦めるのは人生の放棄である。

 

 また人生の後半において自分が凡人であると確信しても、その能力不足を補う手段がある。それは金だ。金は当人の能力不足を完全に補う。そして金を稼ぐ能力は、ある段階から能力によらず、情報収集力がものをいうので、あとは素早くやるかやらないかであり、努力も才能も関係ない

 

 凡人が情報に対して敏感になるには、周りのさらなる凡人が読んでいないような雑誌を手に取るでもよいし、もっといいのは、自分よりももっとずっと情報に敏感で、しかもそういう情報を優位に取得できる立場にいる人を参考にするのがよいだろう。

 

 これはいわゆる処世術と呼ばれるものであり、賢者となるには、そもそも賢者として生まれ落ちたものには関係のない道ではあるが、凡人の幸福論として絶対的に効果をもたらすものではある。

 

 処世術は所詮、凡人の人生に対する慰めに過ぎないのではあるが、凡人が賢人という高い山に登るにはこのような「休憩」や「慰め」も必要である。そのようにして一歩一歩を、倒れないように丁寧に慎重に進むことが高い山を克服する唯一の手段である。