Kの思索(付録と補遺)

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細田守監督最新作「未来のミライ」を語る!~ Kの思索(付録と補遺)vol.58~

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 まず、とにかく画面から生命力が爆発している。それは人の動き、抑圧の否定、我儘に現れる。そこから物の拡散、場の混乱となって、エントロピーが拡散する。「均整の崩壊」という不快感を側からみる快感だ。

 

 恋愛(時をかける少女)、家族(サマーウォーズ)、異種姦交配(おおかみこどもの雨と雪)、人外・・・しかも血の繋がらない親子の成立(バケモノの子)を描写してきた細田監督。このように並べると、監督が「関係の様態と繋がりの本質」をテーマに深堀してきたのが分かる。そんな監督が今作で描いたのは系譜だった。

 

 脈々と受け継がれる過去と未来の系譜は「火の鳥」的な尊いテーマだ。人の営みの本質が浮かび上がるし、自らがそのインデックスの一点にあたるのだと理解するのは重要なことだ。自分の血に流れる系譜を重要視して、自らの生の価値を理解し、これからの未来に価値を生もうとするマインドセットが肝要だ。

 

 また「未来のミライ」が、映像所作表現として物凄いレベルの事をやってる映画なのに、割と評価が荒れてる件によせて。これは、上記してきた哲学的テーマを表現する手法が、極めて思考実験的なためだ。すなわち、この映画では思考世界があって、しかし思考世界が現実に影響を与えていて、そこの部分の整合性が極めて微妙に隠されている。既に映画を見た人なら、僕のいう事がよく理解できるだろう。

 

 この映画は、一言でいえば「子供が世界と自己を獲得する段階の考察、かつその系譜図」なのだ。このような視点でみると、すごく丁寧に作られているのは間違いない。ただし、思考実験それ自体は、物語のカタルシスには直結しないのである

 

 恐らく細田守監督は「おおかみこども」あたりから、分かりやすい物語のカタルシスを求めなくなったんだろう。僕は、この映画の動きの所作の細かさ(子供が膝まづく時に少しよろめくとか)、そして子供の「世界と自己の獲得過程」を興味深く見ていたが、退屈な人には退屈してしまう映画かもしれない。

 

 細田監督はもう、成長というより円熟の期なのかもしれない。一見して子供の成長を描いてはいるものの、この映画全体にはとてつもなく円熟のムードが漂っている。少なくとも、子供が観て楽しいと思うような、家族向け映画だとは断言出来ない。円熟した大人向け映画である。

 

 成長にカタルシスはあるけれど、円熟にカタルシスはない。映画や音楽には特にそれが現れる。作り手が若手ならカタルシスに寄り、大人なら円熟に向かっていく。円熟には安らかな深みと、自分ではない者への細やかな希望と、自分に対する少しの諦めが入り混じる。これをポジティブに捉えるには、楽しむのではなく、愉しむという能動的技量が必要だ。

 

付録と補遺: 成長、円熟、衰退について


 今の中国やインドが「成長」にあたる。当時の高度経済成長期の日本のように、街にカタルシスがあふれ、子供は勉強、大人は仕事に熱狂している。競争に次ぐ競争で、負けたものは自殺すらする。このような社会では「競争での勝利=幸福」というマインドセットになるのが普通である。

 

 対して、いまの日本は「円熟」にあたる。もはやある程度の大人は、自らに諦めを見出し、次世代へかすかな希望を託している。激しい競争はある程度丸みを帯びて、死ぬほど辛い受験戦争や出世競争をするくらいなら、細やかな稼ぎでも、自らの楽しいと思う生活を優先するようになる。「競争での勝利≠幸福」のマインドセットである。自らの幸福を、多様的に探すことになる。

 

 そして、円熟の段階を過ぎ去れば「衰退」が来る。円熟が衰退に向かうにつれて、諦めの色は強くなっていく。自らの価値は、精神的・肉体的なものよりも、手元にある金のほうに比重が増す。「自分そのもの」は消え失せていく。

 

 しかし、このような衰退に「諦め」の美意識を見出したのが、日本の「寂び」文化だ。衰退することに絶望せず、それを自然の摂理として、自然に理性的に受け入れる。あたふたせず、地に足をつけて、凛として死を向かえ入れる。その毅然とした態度に寂びの美が現れるのだ。潔く朽ちて次世代に席を開けよ。

 

Kの思索: 古典書の虐殺の文法

 

 時間の淘汰に負けず、なお残った古典的な書は、本質的な事が書いてある。しかしそれだけではない。普通、並みの言語は行動を変えない。だから数多の自己啓発書をよんでも、行動は変わらない。それは、最奥にある個々人の強固な価値感が虐殺されないからだ。だが、最優の古典には、この価値感を虐殺する文法がある。

 

 もっとも顕著な例を挙げるなら、それが聖書だったり、ブッダのことばだったりする。例えばブッダのことばの蛇の章は、「蛇が脱皮するように」という言葉が、何度も何度も何度も何度も繰り返される。「意味を伝えたいだけ」なら、言葉を繰り返す、というこの行為は無価値であるが、これは虐殺の文法なのだ。

 

 他にも、意味を巧みに掴ませないようにして、それを読者自ら考えさせるように仕組んで、ある時ふっと、己が人生経験の中に、かつて不明瞭だったあの言葉が、明瞭明確な姿を持って現前するようなもの。それも虐殺の文法だろうと思う。

 

 このような文法の明確な正体は分からない。というよりはまだ、僕が日常の思索の中でふとよぎった「問い」に過ぎない。しかしディープラーニング技術等の発達によって、AIがこのような虐殺の文法を明確にする日がくるかもしれない。AIが書く文章は、いずれ人の感情や価値感を、薬のように容易に操作・破壊する文法を組み込むだろう。

 

 END.