Kの思索(付録と補遺)

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「高杉晋作と吉田松陰」後半 天才へ受け継がれた狂の思想 高杉晋作の生涯~ Kの思索(付録と補遺)vol.110~

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画像:高杉晋作

 

前回の記事はこちら↓

「高杉晋作と吉田松陰」前半 吉田松陰がペリーの黒船に乗り込むに至る思想的背景~ Kの思索(付録と補遺)vol.109~ - Kの思索(付録と補遺)

 

才気甚だしい者がいる。


そういう人間を、一般的な人々が養われるような画一的で、柔軟性の欠けた、小さな器で受けることは不可能である。


才気甚だしい者とは、ここでいう高杉晋作であり、小さな器とは、彼の通う学校であった。


晋作は言う。


「かれらはただ重箱のすみをつつくように字義の解釈のみをやっている。それになんの意味があるのか」


「思想というのは、字義の解釈を知り、道理を述べるだけでは意味がない。その道理に電光のような力が備わり、聞く相手を痺れされるものでなければならない」という。


思想は言葉であるが、その言葉に力があればこそ初めて、聞く相手の脳の電気信号を発火させ、行動を変えさせ、そこで初めて実際的なものを変化させる事ができる、ということであろう。


そういう意味で、晋作は実際家であった。結果として行動に現れなければ、どんな観念を勉強したところで、意味をなさないという思想があった。行動教である。


さて前回の記事で、吉田松陰の「狂い」は、彼の行動教にその原因の一端をみる事ができると記した。


ゆえに晋作を受け止めきれる「大きな器」こそ、前回の記事で紹介した吉田松陰であり、彼の開く松下村塾だったというのは、自然の流れであろう。


なお、吉田松陰を晋作に紹介したのは、晋作の学友であった久坂玄瑞である。かれは既に松下村塾の塾生であった。また当時の晋作の最大のライバルと言って良いほど優秀な人物である。のち、吉田松陰の妹を妻にし、蛤御門の変で死ぬ。

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画像:久坂玄瑞


そんな久坂が松下村塾入門のさいに書いた志願文書は、現下の日本を憂い、幕府の意気のなさを嘆き、なぜこうしないのかと自らの理想を延々とつらねる内容であった。


これに対して吉田松陰は以下のように評する。


「君の議論は浮薄で、思慮は粗雑である。ゆらい議論というものは、うちなる真心が外にあらわれ出るものでなければならない。君のはとうてい、至誠中よりするの言にあらず。結局、世の流行の慷慨をよそおっているだけある。それならば名利を求める者とすこしもかわりがない。僕深くこの種の文を悪み、最もこの種の人をにくむ」


凄まじい酷評である。


そこかしこで流行する評を物知りのように述べておけば、賢く見られるだろうという久坂の態度を見透かし、激しく罵倒している。おまえ自らの思いはどこにあるのだ、という。


吉田松陰という人物は、あらゆる人間に対し、おそろしいばかりの優しさをもった人物である。しかもその優しさと聡明さをもって人の長所を神のような正確さで見ぬき、在獄何十年という囚人をすら人変りさせてしまったという人物である。


もちろんこの久坂への罵倒はわざとであった。吉田松陰は内心、小躍りしていた。


少し解説しなければいけない。吉田松陰は師匠と弟子という関係を避けていたことはすでに述べた。


要するに松陰は、塾生と対等の関係をもち、自らも教えられようとしていた。そういう自らを教えてくれそうな久坂という大器が入塾してきたことに心躍り、思わず挑戦したのである。


その証拠に、この酷評の翌日、友人に対し


「久坂生の志気は凡ならず。なにとぞ大成せよかしと思い、力をきわめて弁駁を書き、それを送った。久坂がもしこれで大いに激し、大軍が襲いかかるようにして僕方に襲来してくるならば、僕の本望これにすぎるものはない」


と書かれた手紙を送っている。


面白いことに、久坂も獅子のように反撃文を送ってきた。松陰の意、ここに得たりと言わんばかりであった。松陰も嬉しくなり、さらに反撃文を重ねた。


ついには「久坂玄瑞はわが藩の少年第一流」と述べ、入門を許した。


いずれにせよその久坂から聞いた吉田松陰に、晋作は興味を持つ。18歳であった。かれは28歳で死ぬ。ここからの10年が、彼を歴史に刻みつけることになる。


晋作を見た吉田松陰は「奇士が二人になった」と思った。


松下村塾の目的は、奇士のくるのを待って、自分(松陰)のわからずやな面を磨くにある」と、かねて友人たちに洩らしている自分の塾の目的にみごとにかなった人物が、久坂のほかにいま一人増えたと思った。


神の如き人物眼を持った松陰は「久坂の方が優れている」と晋作を煽った。これもわざとである。

 

晋作のような自負心のつよい男は一度その「頑質」を傷つけて破らねばならぬとおもった。ここで晋作の競争心を煽ることで、必ず非常の男として世に立つことになると見抜いた。


晋作も負けずに「どこが劣っていますか」と聞いた。いい加減な言い方を許さない男であった。具体的に指摘してほしいと詰め寄った。


松陰はいよいよ面白く、大いに指摘した。しかも、その言い方は非常に平易であった。シンプルに、まっすぐな言葉で伝えた。


晋作は欠点を指摘されているにも関わらず、聞くほどに高揚した。


これにより、晋作も松陰の師としての評価を確固たるものにした。


松陰の松下村塾は後世に名を高く残しているが、信じられないことに、その存続期間はわずか3年である。


松陰は江戸の獄中に送られた。いよいよ決定的な判決が下るのであった。


このブログでも繰り返し述べてきたことではあるが、今一度述べておきたい。


革命の初期は、卓越する思想を持った理想家が現れ、かならず非業に死ぬ。松陰がそれにあたる。


革命の中期には卓抜な行動家があらわれ、奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとる。高杉晋作がそれに相当し、この危険な事業家もまた多くは死ぬ。


それらの果実を採って先駆者の理想を容赦なくすて、処理可能なかたちで革命の世をつくり、大いに栄達するのが、処理家たちのしごとである。伊藤博文がそれである。


そして歴史の教科書に載るのは、多くはこの処理家たちであり、革命の途中で死んだものはことごとく、その名を忘れ去られていく。


我々は、吉田松陰が死ぬことを知っている。判決は死罪であった。大老井伊直弼による、いわゆる「安政の大獄」である。

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画像:井伊直弼


松陰の死生観を遺しておくには、ここが良いだろう。


「武士は守死であるべきだ。守死とはつねに死を維持していることである」


「死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし。

生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」


辞世の句は、


「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂


晋作は後に松陰の死を知り「師の思想を継ぎ、世を変える役目を果たすのは自分しかいない」と思った。


高杉晋作とは何者であろうか。


松陰は思想家であったが、晋作は思想家ではない。先も述べた通り、事業家であり、現実家であり、実際家である。


思想というのは要するに論理化された夢想または空想であり、本来はまぼろしである。それを信じ、それをかつぎ、そのまぼろしを実現しようという狂信狂態の徒が出てはじめて虹のようなあざやかさを示す。


松陰はその晩年、ついに狂というものを思想にまで高め、「物事の原理性に忠実である以上、その行動は狂たらざるをえない」といった。


思想という虚構は、正気のままでは単なる幻想であり、大うそにしかすぎないが、それを狂気によって維持するとき、はじめて世をうごかす実体になりうるということを、松陰は知った。


そういう松陰思想のなかでの「狂」の要素を体質的にうけついだのは、晋作であった。


晋作は思想に酩酊するような性質ではなかったし、この時期は自らの狂いを懸命に抑えていた節すらある。だが、結果的には、後世の歴史的立場から彼を見たとき、その様は狂であったといえる。


だが、この時期の晋作は、まだ自分というものがわからなくて苦しんでいる。


天才であろう。しかしなんの天才であるかがわからない。ゆえに、何をやればいいのかわからない天才であった。


高杉晋作は後にこう語っている。


「およそ英雄というものは変なき時は非人乞食となって潜れ。変ある時に及んで龍の如くに振舞はねばならない。死すべきときに死し、生くべき時に生くるは英雄豪傑のなすところである。」


変なき時である今、そういう時の彼は、「放蕩放埒」という言葉をあたかも擬人化したかの如きありさまであった。酒とタバコに溺れた。


そして、女に溺れた。あたかも自らの生命を維持するためかの如くに必要とした。もし婦人と十日も接しなければ、晋作は自分の精神が正常でありつづけることに自信をうしなうほどであった。「英雄、色を好む」というが、晋作は正にそれであった。


このような有り様であるから、「自分は何事もこの世で為すことのない不能の人物ではないか」というおそれと不安と懐疑とが、晋作を、叫びだしたいような心境にさせた。


明確な才能としては、詩があった。


だが、詩文の世界よりもさらに革命という、詩を現実化するほうにその才能があったとは、晋作自身、この時期はあまり気づいていない。


1862年高杉晋作は海をわたって上海へ「洋行」した。当時の日本人にとって、驚天動地といっていいほどの重大事件である。鎖国は幕府の祖法であり、晋作の師である吉田松陰は、ある種、洋行を試みたために死んだのだ。


ただし晋作の場合は幕府からの派遣使節として、すなわち正式な認可を得た形での洋行である。これは晋作が上士の出であったことがまず一つの理由としてある。どんなに人物が偉大でも、その人物に相応しい馬でなければ、大きくは動けまい。晋作の場合は、その馬が「上士」という立場であった。


そして運のいいことに縁が巡り、洋行の人事を担う周布政之助に海外を見るにふさわしい眼力があると認められた。それがいま一つの理由だった。


そもそも日本の歴史にとって、洋行というのはそれ自体が異変でありつづけている。思想が一変し、文化までが変化した。遠く最澄空海が唐へ行ったがために日本の文化状況が一変したことでもわかるであろう。


ともあれ晋作ら一行をのせた「千歳丸」が長崎港を抜錨出港したのは、1862年4月29日の早暁であった。目的は貿易調査である。当時の幕府はすでに通商条約は結んでいたが、まの抜けたことに肝心の貿易実務がわからないのだった。それを実地で見てくるのである。


上海港では、日本中を震撼させたあの黒船が無数に停泊していた。晋作は改めて「西洋」というものの富力の大きさ、文明の発達度に衝撃を受けた。


結局、晋作は2ヶ月上海にいた。


この間、商館の外国人から「幕府が通商したがっているのに、大名が反対しているために事が運ばない。日本では幕府よりも大名が強いのか?」というような質問をされたりした。


そういう外国人から見た対日観に触れた晋作は「なるほど幕府というのは、藩を集めて押せば倒せてしまう、朽木のようなものではないか」という実感を得た。彼はこのとき「革命」を生涯の事業とすることを決意した。


さて晋作は上海から帰ってきて早々に、革命の大戦略を立てた。


長州藩は滅んでも良い」ーーそれが骨子であった。自らの藩を滅ぼすことと引き換えに、革命を成そうとした。肉を切らせて骨を断つーーどころではない。骨を切らせて骨を断つ、死中に活路を見出すやり方であった。


結局、のちに長州藩は滅亡寸前まで追い込まれることになる。だが坂本龍馬薩長同盟などもあり、晋作も龍馬にはだいぶ無茶なお願いをして、結果として革命は成る。しかしすでにこの時点で、滅亡の覚悟を持って作戦を構想していた。そういう人物は晋作以外にいないだろう。


彼は戦略家であると同時に、戦争家であった。戦争が好きであった。そういう血の騒ぎを、常時は放蕩放埒を持ってなんとか沈めているような男であった。彼のような男には「日常」や「普通」が理解できないだろう。


まずは外国を怒らせる。そして戦争に持ち込む。万人が侵入軍と戦うだろう。既成の秩序は壊れ、幕府も何もあったものではなくなる。そういう攘夷戦争の中から、民族としての統一を生み出し、新国家を樹立する。それをやってのける以外、その他全ての革命理論は、たんなる抽象論にすぎないと思っていた。


英国の植民地だったアメリカは、英本国と決戦することによって人心が団結し、ついに砲煙のなかでアメリカ合衆国を成立させたが、晋作はそれをやろうとしている。


この時期から彼の行動は、後年、伊藤博文が晋作の碑に碑銘をきざんだように「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」というようになる。


まず外国公使を襲撃すると決めた晋作は、手始めに脱藩する。藩に迷惑をかけないためであった。と同時にこの当時、脱藩というのは捕まれば死罪に値する行為である。


そのような身で、自らと志を同にする「死士」を集った。「御楯組」という攘夷決行の決死団である。二十二人を得た。ほとんどが松下村塾の門生あがりであった。


彼らとともに、晋作は御殿山の英国公使館に火を放って燃やした。その後、幕府は長州人の仕業らしいというところまで調べをつけたが、政治的対立を恐れて、それ以上に踏み込まなかった。これにより、晋作はいっそう幕府という権威の弱まりを実感した。


どうもこの男は自分の命を賭け金にして、幕府の権威を確かめるという博打をしている節がある。


次に行ったのは、師、吉田松陰の改葬である。この安政の大獄大老井伊直弼より直々に死刑を受けた公儀の大犯罪者は、小塚原の刑場に埋められていた。


その遺骨を御楯組の手で掘り起こし、行列で連れ立って、世田谷村若林の大夫山にある毛利家の別荘地へ埋めなおそうという試みである。堂々たる幕府への挑発である。


もちろん晋作は、博打を打つにしても、絶対に負けるという勝負には張らない。


井伊直弼はすでに桜田門外の変で斃されている。これによって政情が大いにかわり、幕府の態度は軟化していた。朝廷は幕府に対して、安政の大獄で罰したものについての大赦を行えと沙汰していた。

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画像:桜田門外の変


晋作は、もしこの改葬を幕吏が邪魔をすれば、問答無用に大槍で突き伏せるつもりであった。ただでは済まないだろうが、天下が騒げばそれでいいと構えていた。


途中、「御成橋」という神聖橋に差し掛かった。将軍が寛永寺に参拝するときにかぎり、将軍ひとりのために用いられる橋である。当然、橋向こうには番所が置かれ、役人が詰めていた。


その神聖橋を目前にした葬列に、晋作は、


「真ん中を渡れ」


と言った。


日当でやとった六人の甕かつぎの人夫は仰天し、「あの橋を渡れば首を刎ねられます」と叫んだ。


しかし晋作は人夫のえりがみを掴んで「渡れと言ったら渡れ」と引っ張りながら、ついに馬蹄を橋にかけてしまった。


番士が驚き、飛び出てきた。しかし正月であったため、一人であった。番士は「この橋が神聖橋であることを知らぬか!」と喚いたが、晋作は大槍を掲げて「どけ!」と一喝した。


そうこうしているうちに、見もの衆が群がって、数百人になった。それを見計らい、「勤王の志士、吉田松陰の殉国の霊がまかりとおる。担い手は長州浪人、高杉晋作である。」と言って、ついに橋を渡り切ってしまった。


幕府の大罪人の、しかも死骨を運んで、将軍一人のためにある神聖橋を渡るなど、暴挙そのものあった。もちろんこの騒ぎはすぐに幕閣へ届いたが、これほどの事件でも幕府は不問にした。


幕府に対する晋作の挑発は続く。


1863年3月11日、京にて行幸が行われた。晋作はその見物衆の中にいた。天子の籠が通る時、この男は大刀を傍に置き、ひざまずき、長々と拝礼した。これは天子を地上で最高の価値とする松陰の教えであった。


さてこの行列に、将軍、徳川家茂もあった。

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画像:徳川家茂

 

当時の幕府の作法で、将軍の顔というのは大名でも見ることができない。上目で見ることすら非常な非礼とされていた。よって、ひとびとはみな土下座し平伏している。


が、晋作だけは顔をあげていた。そして、


「いようーー 征夷大将軍。」


と叫んだ。


晋作は、幕府が手を出せないことを知っていた。彼の戦略眼がよくわかるエピソードである。


この行列は、あくまでも天子の行幸であり、晋作の無礼は天子に対する無礼ではない。だから幕府にそれを咎める機能はない。しかも誰もが天子の行幸を乱すわけにはいかないと思った。それこそ非礼の極みであろう。すべて晋作の計算どおりであった。


だが、晋作という男はまことに不安定な男である。上への振れ幅が大きいほど、下への振れ幅も大きいものだが、このあと程なくして「出家する。坊主になる」といい、庵に籠ってしまった。


晋作の狂いが鎮静に向かったのと引き換えにするかのように、今度は長州藩そのものが狂った。


攘夷を決行するため、米国の貿易船ペンブローク号に対し、藩の艦砲と沿岸砲をもって砲撃したのだ。これが第一戦であった。たかだか日本の一藩が世界中に向けて宣戦布告をしたようなものであった。


続いてフランスの通報艦キァンシャン号へ砲撃し、水兵4人が死んだ。続けてオランダ軍艦メジュサ号へ砲撃した。


さて、このようなやりっぱなしが長く続くはずがない。まずはアメリカの軍艦であるワイオミング号が復讐にきた。惨敗であった。


ここまで4戦1敗である。だが1863年6月5日、5度目の戦いで、フランス巨艦2隻に大敗北する。これは長州藩の自信を根こそぎ削ぐものであった。


人々は英雄を待望した。もはやなりふり構ってはいられないだろう。長州藩主は晋作のもとに使いを走らせた。庵に籠る晋作に対し、使いは藩主の命令を伝えた。


「かつての脱藩の罪をゆるすとのお言葉でござる。いそぎ山口へ参るようにとのこと。火急でござるぞ」


晋作は下関防衛の司令官となった。運命というものはまことに想像ができないものだ。かつて、脱藩し、その後幕府を大いに挑発し、つい先日まで坊主になっていた男が、今や対外戦争にて長州防衛を背負う指揮官となっている。


この時、晋作24歳である。この若造に指揮権を預けねばならぬほど、すでに長州藩は逼迫していた。


晋作は下関に向かいながら、どうするかと考えた。結論としては「新たに一軍を起こすしかない」ということであった。


今回の下関、馬関海峡での戦争で得られた重大な事実は、もはや上士階級の者どもに胆力が無くなっており、みな腰が引けていることであった。徳川政権の長期安泰の中で、家禄だけを継いで暮らしてきた者どもである。当然であった。


比べて、勇敢に戦ったのは足軽階級以下の者達だった。上士になればなるほど命を惜しんで逃げたがった。つまり、


「無差別階級の兵団を創設したほうが強い」


これが晋作の有名な「奇兵隊」である。志が強い者であれば、階級は問わない。この封建社会にあって、この身分を問わない軍隊を成立させること自体、一つの革命であった。

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画像:奇兵隊


下関海峡は、長州藩によって封鎖されている。米仏蘭は「この封鎖を解除しなければ、我々の軍事力によって排除するしかない」と脅してきた。


藩はそれを蹴った。戦略論としては、誰が見てもまったくもって無理無策である。いま、長州に体力はない。それなのに米仏蘭と戦って勝てるはずがない。


だがこういう場合、幕府を含めた政治的なパワーバランスが絡んだがゆえに、通常考えるとあり得ないような意思決定が行われているものである。今回もそれであった。が、その内容は本筋から離れるため今は書かない。


結局さらに英を追加する形で、英米仏蘭という四ヵ国、十七隻の連合艦隊が長州にやって来ることになった。これではどうしようもあるまい。結局、長州藩は艦隊によって逆封鎖され、沿岸は敵の陸戦隊の占領下に置かれた。もはや、どうにか講和するしかない。


よほどの胆力の持ち主でなければ、この大役は務まるまい。この長州藩代表の講和使に、晋作が選ばれた。臨時の筆頭家老まで引っ張り上げられた形である。


アーネスト・サトーという人物がいる。イギリスの駐日公使として、通訳官を務めた。彼は自らの仕事を通じて、明治維新の政治的風雲を広い視野で眺めることができた。彼の書いた日記は、明治維新を知る上で第一級の資料となっている。

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画像:アーネスト・サトー


そのサトーが、今回の晋作と四ヶ国艦隊との講和の模様を日記に綴っている。晋作の様子については、


「魔王のように傲然とかまえていた」


と描写している。


晋作は藩から託された講和書を提出した。司令長官のクーパーは全くあきれた。降伏するともなんとも書いていないのである。まずは謝罪状を持ってこい、交渉はそれからだ、とクーパーは言った。


ところが晋作は「べつに長州藩は戦には負けておらぬ」と言い放った。これにはクーパーも笑い、海岸の荒れ果てた様子を指差して「あれでも負けてないと言うのかね」と返した。


「魔王」はゆっくりとうなずき、「負けていない」といい、続けて、


「貴艦隊の陸戦兵力はわずか二千や三千にすぎぬではないか、わが長州藩はわずか防長二カ国であるけれども、二十万や三十万の兵隊は動員できる。本気で内陸戦をやれば貴国のほうが負けるのだ、われわれは講和する、しかし降参するのではない。」と高々と言った。


無論、ハッタリである。長州は滅んでも良いと言う覚悟が彼の隠された基底にあるからこそ、このような言が放てるのである。


だがクーパーも司令長官を務める男である。さらに鋭く斬りかかってきた。賠償金である。「三百万ドル」と言った。これは長州藩が50年かかっても払えないほどの巨額であった。


晋作は「今回の攘夷は、幕府と朝廷の命によって行われたものである。よって賠償金については幕府が払う」と言った。「魔王」は、朝廷と幕府の攘夷命令書を持ってきていた。


クーパーは、賠償金を幕府に交渉することに同意した。幕府なら取りっぱぐれがないと思ったのである。というのも、幕府がこれに「ノー」と言えないのを知っていたのだ。


もし幕府が「長州藩の責任」と言ってしまえば、長州藩は独立国家であることになり、解釈を拡大すれば、三百諸侯すべてが独立国家であることになる。幕府が日本唯一の正式政権であるという大前提が崩れるのである(現に、この賠償金については幕府が年賦返済し、幕府崩壊後は明治政府が肩代わりした)。


しかしクーパーは念の入った男である。調印の直前になって「あの彦島を抵当として租借したい」と言い出した。「租借」というのは体のいい言い方で、本心には、いずれ我が国の領地にするという狙いがある。


これに対し、晋作は大演説をやり始めた。古事記日本書紀の講釈であった。これにはアーネスト・サトーという語学的天才でも通訳しかねた。


「そもそも日本国なるは、高天ガ原よりはじまる。はじめ国常立命ましまし、つづいて伊弉諾・伊弉なる二柱の神現れまして……」と延々続くのである。晋作の舌は止まらない。


誰もが呆然としていた。皆が「こいつは狂ったのではないか」と思った。だが晋作の方は、2日間でもこれをやって、ゆえに日本は一島たりとも割譲できないと言うつもりであった。流石のクーパーもこれにはたまりかねて「租借の件は撤回する」と言って、調印した。


さて長州は、もはやこの維新の風雲の火薬庫のような存在になっている。「こいつをこのまま放っておいたら、幕府もろとも吹っ飛んでしまう。いっそ滅ぼしてしまえ」という気分が、幕府の上下にみなぎり始めた。いわゆる幕府の「長州征伐」であった。その先鋒は新撰組である。


維新の資料が豊富であることの理由として、書簡が多く残されているというのがあるが、晋作のこの時期の心境も手紙として残されている。


「生とは天の我れを労するなり。死とは天の乃ち我れを安んずるなり。」


要するにこれが、生の目的とは何か、ということに対する、晋作の答えである。すなわち、


「生とは、天がその生に目的をあたえ、その目的のために労せしめるという過程であるにすぎない。逆に死とは、天が彼に休息をあたえるというにすぎない。」


高杉晋作の人生や、大政奉還を成した直後に散った坂本龍馬の人生を思うにつき、上記の思想はまとこに至言であると思わざるを得ない。事を成す英雄のみ、真に理解できるものである。


この思想においては、自らの命はただ天命に委ねられており、それをどう使うかは天の勝手である、という境地にある。


すなわち事が成り、生き続けることになっても、まだ自らには成す事があるという天命が降っているということである。また逆に命が無くなっても、それもまた天命である。だから命を自らどうこうしようと思わない、生きようが死のうが、天の勝手であるーーそういう境地である。


幕軍が大挙長州へ押し寄せてくる。本当に倒すべき敵は外国であるはずなのに、その解決のためにはまず、内部統治のための戦いに9割を割かねばならない。これは政治の力学と言うべき皮肉であろう。


1866年6月7日、幕府は長州に向かって事実上の開戦をする。「四境戦争」と言った。その名の通り、幕府は長州藩国境を四方面から攻めようとした。


周防大島という、長州藩最大の島がある。幕府はこの島をもって海軍の根拠地にしようとした。6月10日、幕府の艦隊はことごとく集結し、陸兵は全部上陸した。


晋作は兵をかき集めた。が、海軍のことなどろくにわからない壮士たちばかりである。晋作は、こういう連中を軍艦に乗せ、共に幕府艦隊と海戦をしようというのであった。無謀を通り越している。


そもそも機関を焚けるものがいない。晋作は、土佐の浪士である田中顕助を指名した。顕助は驚いた。むりもないだろう、彼は蒸気船にすら乗ったことが無かった。後にこの時のことを追憶談になるごとに語っている。

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画像:田中顕助


顕助が「無理です」と断ると晋作は一喝し、


「汽罐など、風呂屋の下働きでも焚けるのだ」


と言った。やるしかなかった。


そもそも長州の軍艦というのは「丙寅丸」といい、200トンしかない。これに対し、幕府の「富士山艦」は1000トンである。軍艦の強さは、そのトン数に比例するというのは常識であったことからも、晋作の無謀さが際立つ。

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画像:富士山艦


余談であるが、晋作は生涯、「こまった」という言葉を吐かなかった。困った、といったとたん、人間は智恵も分別も出ないようになってしまう。「そうなれば死地となる。活路が見出されなくなる」というのが、晋作の考えだった。


しかも晋作には長考という習性がなかった。その思考は常に居合のように短切で、そのくせ桂馬のような跳ね方をし、常に奇道であった。天性の戦略家と言っていい。


その晋作も、この時ばかりは「長考」した。1時間であった。しかも両足は天を向き、頭を畳の上に転がし両手で支えていた。逆立ちの姿であった。この1時間で晋作は幕府艦隊に対する戦略を思案しきった。


晋作は扇子一本で丙寅丸へ飛び乗り、「軍艦の夜襲をやる」といった。この当時、夜戦とか夜襲とかいう思想はヨーロッパにもない。しかも軍艦に関してはズブの素人群がそれをやるというのだ。


晋作は、「要するに、先手をとって幕府の度肝を抜くのだ。度肝を抜かれた兵というのは、ことごとく大したことがなくなる」と言った。


幕府の艦隊が不用意であったのは、ことごとく汽罐の火を落として寝静まっていることであった。とはいえ、夜襲などという概念がない以上、これは致しかないことでもあった。晋作の戦略が上まわったに過ぎない。


汽罐というのは、一度落としてしまうと、そう簡単に焚き直せるものではない。風呂桶の水でも、湯に成るには相当の時間がかかるのである。


晋作は幕府艦隊へ忍び近づいた。海図もなく、暗礁もわからないのに、ろくな操船技術のない素人群がこれをやってのけたのは、晋作の天賦のカンと、運の良さによったとしか言いようがない。


晋作は幕府艦隊への一斉射撃を命じた。と同時に、各艦への間を機敏に動き回った。砲撃の命中率というのは、敵艦までの距離に比例する。この時の距離は、近いなんてものではなかった。目の前に聳え立つ山という形容がふさわしい。砲撃はことごとく命中した。猛烈な損傷を与えた。


この間、幕艦の乗務員の狼狽ぶりは滑稽というほかなかった。汽罐に火を入れる者、甲板を走る者、砲側にとりつく者など戦い以前の問題であった。しかも丙寅丸は小さく、しかも機敏に動き回っているため捕捉しづらい。ついに幕艦は味方の艦を撃ち、さらに味方に撃ち返すなど、大混乱を極めた。


とはいえ幕艦に本格的な射撃用意が整ってしまえば、丙寅丸などは象に踏み潰されるアリ同然である。晋作は引き際も心得ていた。


晋作はこの間、大刀を杖に、扇子を持って、艦首に立ち続けていた。まるで千両役者の風貌であったと語り継がれている。やがて幕艦から黒煙が出始めたのを見て、即座に闇に紛れ、逃げてしまった。1866年6月12日のことであった。このあと幕府艦隊は大島を捨て、長州藩の海域からも遠く去っていった。


「次は小倉城だ」と晋作は言った。まさに雷電風雨の狂いであった。だが同時に、肩で息をしていた。ときに晋作、27歳である。かれは幕軍の根拠地である小倉城を攻め落とし、その生涯の終止符とするつもりであった。

 

晋作はこの小倉城の攻略作戦を、病のために身を横たえながら総指揮した。肺結核であった。もはや立てないほどに悪化していた。凄まじいことに、この小倉城の攻略作戦をも成功させる。


だが晋作は、これで力を使い果たしたと思った。


1867年4月14日、自らの死を悟った晋作は、辞世の句を書いた。もはや力のない文字であった。


「おもしろき こともなき世を おもしろく」


この上の句を書いた段階で力尽き、筆を落としてしまった。枕頭にいた野村望東尼は、下の句をつけてやらねばならぬと思い、


「すみなすものは 心なりけり」


と書いた。


晋作は「…おもしろいのう」と呟き、息絶えた。


27年と8ヶ月という短い生涯であった。

「高杉晋作と吉田松陰」前半 吉田松陰がペリーの黒船に乗り込むに至る思想的背景~ Kの思索(付録と補遺)vol.109~

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歴史というものには本来、始点や区切りといったものはない。連綿と続いてきたものである。

 

そういう意味では、歴史の教科書のように、〇〇時代などと、あたかも区切りがあるかのように名付けて呼ぶのは間違っている。

 

だが、それでも歴史に区切りをつけたくなるほどに、時代が変化した起爆点とも呼べるような出来事がある。

 

今回紹介するのは明治維新である。これにより徳川家300年政権が崩壊し、大政奉還によって、政権は朝廷へと移った。簡単に言えば、将軍支配から、天皇支配へと変わった。

 

明治維新を引き起こした決定的な起爆点はなんだったのかと聞かれれば、それが嘉永6年(1853)の「黒船来航」、いわゆるペリーの襲来である。

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要は、鎖国している当時の日本にとっては圧倒的過ぎる黒船という武力を見せつけ、開国しろと脅してきたのである。

 

徳川政府は不平等な条約を無理やり結ばされるなどしたため、当時の民は反乱を示し始めた。

 

そのために西郷隆盛坂本龍馬、はたまた近藤勇土方歳三率いる新選組などが、明治維新を引き起こす舞台装置となったのである。

 

今回紹介する人物は、高杉晋作と、その師匠である吉田松陰である。

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高杉晋作

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吉田松陰

 

なお先に断っておく。筆者は歴史を書くというよりも、彼らがどのような思想を持って生きたかを書きたくて筆を進めている

 

吉田松陰は武士である。当時の武士は戦国時代の武士と比べると、明らかに「純」ではなかった。いわゆる「武士道」は、徳川300年の泰平が濁らせていた。

 

だが、吉田松陰の叔父であり教育係であった玉木文之進は、生粋の武士であった。

 

吉田松陰が勉学中、顔にたかる蝿にたまりかね、思わず顔を掻いた。それを見た玉木文之進は、吉田松陰を気絶するまで殴った。

 

玉木文之進によれば 、侍の定義は公のためにつくすものであるという以外にない 、ということが持説であり 、極端に私情を排した 。

 

顔がかゆいから書く、というのは私情であり、勉学に励んで公に尽くすという行為に優先されるものではない。少なくとも武士にあっては許される事ではない。そういうことであろう。

 

そんな玉木文之進が開いた塾が「松下村塾」である。ここをのちの吉田松陰が塾頭となって引き継ぎ、久坂玄瑞伊藤博文、そして高杉晋作などの歴史的人物を大量に送り出すこととなる。

 

余談であるが、当時のかれら、即ち武士の初等教育の教課内容は 、四書五経であった。

 

驚嘆すべきは、これらがすべて畑でおこなわれ 、一度も机の上でおこなわれたことがなかったということである。

 

教育者も百姓仕事のために時間がなかったのである。

 

話は文之進へ戻る。

 

彼は、いっさい下僚を叱ったり攻撃したりしたことがなかったという面もあった。

 

どの藩でもそうであったが 、民政機関には賄賂や供応がつきもので 、とくに下部の腐敗がはなはだしかった 。

 

当然文之進の性格からすれば 、それを激しく悪みはしたが 、しかしそれらの患部を剔りとるという手荒なことはせず 、みずから清廉を守り 、かれらが自然とその貪婪のわるいことをさとるようにしむけた 。

 

松陰の文章を借りれば 「自然と貪の恥づべきを悟る如くに教訓するのみ 」 。

 

文之進は 、子弟を育てるについては苛烈きわまりない教育者であったが 、民政家として民にのぞむや 、別人のように優しい人物であったことを 、松陰はこの師のみごとさとして生涯の誇りにした 。

 

そんな文之進の教育を受けた松陰は、10歳にしてすでに「よほどの秀才である」という評判が立っていた。

 

これがために藩主の御前で講義をすることとなったが、およそ10歳とは思えないほどの名講義であったという。

 

講じたのは 、家学山鹿流の 「武教全書 」のうちの 「戦法篇 」である 。これの「用士」のくだりは特に藩主が感嘆した。

 

「用士は士を用ふるにて 、此の篇 、上家老よりして下群臣に至るまで 、其の中にて賢才を目きき挙げ用ふるの法を云ふ 。」

 

と続く。現代にも通用する論と言えよう。

 

松陰が独立の師範になった十八歳の嘉永元 (一八四八 )年 、藩の学制改革について、ぼう大な意見書を書いている。一部を紹介すると、

 

「学校をおこすということは 、単に教育機関をつくるということではない 。これを軸に国家 (藩 )の風儀を一変させるという覚悟をもってやらねばならぬ 。」

 

「文武は一体であるべきである。万世に至るまでこのことは不変であるべきである。」

 

「勉学に伴うて試法 (試験 )が必要である」

 

そして

 

「大器をつくるにはいそぐべからざること 」

 

すなわち老子出典の大器晩成である。これは松陰の生涯の持説であった。

 

ただ松陰は若くして処刑されることになる。その弟子の高杉晋作も短命に終わる。大器晩成の持節は喜劇的な皮肉であった。

 

さらに嘉永二 (一八四九 )年 、松陰十九のとき、再び藩主に召されて、その御前で武教全書の用士篇を講じた 。人材登用法である 。

 

「人には得手と不得手がある 。英雄にも愚者にもそれがある 。それを見ぬいて人の得手を用いるがよい 。」

 

「平凡で実直な人間というのはいくらでもいる 。しかし事に臨んで大事を断ずる人物は容易にもとめがたい 。人のわずかな欠陥をあげつらうようでは大才の士はもとめることができない」

 

まるで、のちの高杉晋作の登場を運命が予期しているかのようである。

 

松陰が傑物であるのは、ここまで秀才でありながら、ともすれば時に自尊心を肥大させ、酔わせる学問という酒に溺れなかったことである。むしろ、そういうものを否定した。

 

松陰がおもうに 、「学問ばかりやっているのは腐れ儒者であり 、もしくは専門馬鹿 、または役たたずの物知りにすぎず 、おのれを天下に役だてようとする者は 、よろしく風のあらい世間に出てなまの現実をみなければならない

 

そういう思想を持っていた。

 

「実行のなかにのみ学問がある 。行動しなければ学問ではない 」

 

と言い放つまでの宗教性を帯びた信念をもっていた。いわば行動教と言って良い。

 

行動教に大きく影響したのは、吉田松陰王陽明の 「伝習録 」という書物を読んだことが第一に挙げられる。

 

また村田清風という老人が松陰を教育にきて、「鉄砲の操法や部隊の進退法に達しない者は戦術を語るな 。つまり実技のやれない者は理論をいうな 。その逆も真である 。孫呉孫子呉子 、戦術 )に通ぜぬ者が 、実技を論ずるな 」というようなことを言ったりした。

 

彼の思想的性格はそういう環境で形成されていった。

 

人間の運命をきめるものは 、往々にしてその能力であるよりも思想的性格によるものらしい。

 

吉田松陰が彼の松下村塾によって行動教を叩き込み、世に送り出した傑物のうち、多くが維新の風雲の中で斃れることになる。

 

ここで読者諸氏は注意されたい。松陰自身、あくまで秩序の重要性は知っていたということを。

 

というのも、松陰の専門は兵学であり、兵学の原理は秩序であるからにして、自然、松陰自身も秩序の重要性は骨身にしみて知っていたのである。

 

だが、松陰は 矛盾した。

 

秩序美を讃美するくせに 、同時にものや事柄の原理を根こそぎに考えてみるたちでもあった 。

 

原理において正しければ秩序は無視してもかまわない 、むしろ大勇猛心をもって無視すべきであると考えた。

 

すなわち原理、目指すべき目的が正しいのならば、それを達成するための手段は「浄化」される。

 

そういう気質は、高杉晋作に引き継がれることになる。

 

とはいえこのころの松陰は、ものの原理が大事か人間社会の法秩序が大事かという 、その後のかれ自身の運命を決定してゆく重大課題については 、まだかれ自身において解決ができていない 。

 

さて、嘉永6年(1853)2月のころの松陰である。

 

すでに先の村田清風老人が「かならず洋夷が日本を侵しにくる」ということを早くから言い 、「そのとき日本を守るべく切りふせぐ者は長州男子である 。」ということを説きに説き 、説くだけでなく兵制改革や士風刷新の重点をそこにおき 、藩内に危機意識をあおりつづけた 。

 

長州藩が幕末 、過度なばかりの危機感にかられて暴走につぐ暴走をかさねるにいたるみなもとは 、この清風の藩づくりにあったといっていい 。

 

松陰はこの老人の危機意識の猛々しさに感動し、感動のあまり 、夷敵の軍艦がやってくることをおもうとき 、すぐ小舟を駆って斬り込みするという反射だけがあたまにうかぶようになった 。

 

とはいえ、西洋ぶねといっても松陰のあたまにあるのは風帆船だけである 。

 

まさか西洋には蒸気機関を積んで自走できる船があろうとは思いも至らず 、そういう驚天動地の大事実は 、この年の六月 、浦賀にやってくるペリ ーによって知らされるのである。

 

この時期の松陰は 「どうしてもこれからは洋学をやらねばならぬ。敵の文明を知り 、敵の武器 、戦法を学び 、そのうえで敵に備え 、敵の来るを撃たねば 、日本は洋夷の侵略するところとなる。」と考えていた。

 

「この上は 、国禁をやぶって外国へ渡る以外にないのではないか 」とまで思い浮かべるようになった。当時においては非常な暴挙である。

 

鎖国は幕府の祖法であり 、もし国外へ密航するような者があれば 、容赦なく死罪であった。

 

だが松陰は 、狂がすきであった 。人間の価値の基準を 、狂であるか狂でないか 、そういうところに置くくせが松陰にはあった 。

 

総括すれば、彼の洋学にたいする熱狂的興味と、目的のためになら手段が浄化される行動教と、観念的理想実現を達成するために現実と真っ向衝突することによって生じる「狂い」への信奉が、彼を黒船に乗り込ませることになる。

 

その萌芽として、松陰は、彼と志を共にする同士のために命をかけて無断の東北旅行などに出向き、罰として浪人の身に堕ちたりしている。

 

黒船到来の第一報は 、幕府から諸藩に正式に通達があったわけではなく 、諸藩それぞれが 、手をつくしてその変報を得た 。

 

ここで少し、ペリーについて触れておこう。

 

ペリーは、日本政府に対し通商をせまるにあたって 、返答によっては日本を武力制圧するという態度を暗に示した。

 

この外交態度は、ペリ ー自身が考えぬいたすえのことであり 、そういう態度を示すことが東洋人に対して効果的であることを 、かれは任を帯びた最初から考えていた 。

 

未開人に対しては 、子供を相手にするようなやりかた 、つまりこわがらせるのがいちばんいいというのがかれの理論であった。事実、これは成功する。

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さてこの時期、松陰は、佐久間象山という学者の塾に入っていた。

 

前述してきたように、松陰の学問成績は優秀であった。その優秀さゆえに、自分はなんらかの専門家的気質があるという考えに囚われていた。

 

だが、松陰はこの時期 、気づいていなかったが 、かれの無意識の志向やら性格やらは 、専門技術を習得したり 、それに熱中したりすることにはまったくむいていなかったらしい 。

 

象山塾は 、語学塾でもあった。せっかく通学しているのに 、ことばをおぼえねばならぬと自分を叱りつけてはいるのだが 、どうも気が乗らない 。

 

(これをおぼえねば 、西洋兵術に達することができないのか )と 、ときに絶望的な思いになったりした。

 

語学を覚えることが、自分のなすべき方向へ、直線的に結びついてるのかどうか。

 

要するに、松陰は専門者でなく総合者であるようだった 。

 

そのするどい総合感覚からあらゆる知識を組織し 、そこから法則 、原理 、もしくは思想 、あるいは自分の行動基準をひきだすことが、彼の天性であった。

 

十二日に 、ペリ ーの艦隊が去った 。町には活気と安堵が広がった。しかし松陰は、安堵するのは間違っていると思った。思うだけでなく、あちこちで論じて回った。

 

しかし結局彼の「行動」も、所詮はただの書生風情が 、書生仲間で激論するだけの行為であり、何も変わらないと感じ始めた。

 

では、何をすれば良いか。

 

「藩公へ意見書を奉るつもりです。」

 

この松陰の言葉には象山も驚いた。浪人が 、堂々たる大藩主に意見書を出すなどは 、この当時 、考えられぬほどの 、僭越沙汰であった 。

 

だか、象山のみるところ、松陰のこの行動は、原理としてきわめて正しい 。

 

松陰はいま天下はなにをすべきか 、ということを藩主に文書によって説こうとしている 。

 

それも抽象論ではなく 、具体的に長州藩主毛利慶親という人物が 、きょうからなにをすべきかということを 、一冊の本になるほどの詳細な意見書に仕上げて上呈しようというのである 。

 

この意見書のタイトルは「将及私言 」である。結局この願いは 、容れられた 。長州藩ではこの書を 、段階をへつつ藩主毛利慶親の手もとにまで達せしめている 。

 

さて12月、この時期松陰は始めて弟子のようなものをとる。名を金子重之助という。

 

とはいえ、松陰は師匠と呼ばれることを好まなかった。彼の書いた「師道論」には、

 

人間に師や門人という立場があるはずがない、みだりに師と言い 、弟子と言うことは 、第一古聖賢に対して無礼ではないか

 

といったことが書かれている。

 

さらに時を進める。

 

幕府代表は 、横浜において 、米使と二度にわたって会見し 、二月二十五日 、箱館開港の許可状をあたえ 、同二十七日 、下田と箱館の開港時期についてうちあわせをするという 、松陰の情念からいえばさんたんたる敗北におわった 。

 

激発する活動体と化していた松陰は「もはや密航しかあるまい」と考えた。かれにとって敵であるはずの米艦に投じ 、密航に協力してもらい、ひろく世界を偵察するのだ。

 

もちろん、100に一つも成功しないだろう。だが、成功不成功を論ずべきでないというのは 、この時代に普及した儒教的武士道であった。

 

そしてきたる3月27日、吉田松陰はいよいよ黒船への乗り込みを決行する。共に、弟子である金子重之助を連れて行った。

 

幸運にも砂浜には舟があった。もちろん松陰のものではない。それを盗んだ。波の上に落とし込み、すぐに乗って漕ぎ出そうとした。

 

ところが、櫓がはまらない。驚いたことに、櫓杭がなかった 。だがこの若者は失望を知らない。

 

「褌で櫓をしばればどうだろう…褌ではだめだ。では木綿帯ならば。」

 

失望を知らないものは、ただまっすぐ「では、どうすれば良いか」ということのみ、怒涛のように考える。この時の松陰はそれであった。

 

黒船に横付けしたときには、松陰は顔が蒼ざめるほどに疲労していた。

 

金子は、船上をあおいでどなった。

 

「お頼み申す 、当方 、ふたりでござる 。」

 

船上の夷人は、怪人物達の接近に心底驚いたであろう。

 

松陰は懐紙を取り出して、意思疎通のための漢文を書いて渡した。

 

「吾等ハ米利堅(メリケン)ニ往カント欲ス 。君幸ヒ 、コレヲ大将 (ペリ ー )ニ請セヨ」

 

やがて 、この艦隊の正式の通訳官であるウィリアムズという人物が やってきた。

 

「手紙でものべたように 、我等は世界を見たい 。アメリカへ連れて行ってもらいたい。 」

 

松陰は頼んだが、ウィリアムズは拒絶した。この拒絶はペリーの意思でもあった 。

 

ペリーは松陰の手紙もよんだし 、この甲板上のさわぎについても 、提督室にあってすでに報告をうけている 。

 

「拒絶されれば私どもは殺されましょう 」と金子は重ねて請願したが、通らなかった。

 

とはいえこの騒ぎを通して、ペリーは日本人というものに大きな衝撃を受けた。正式記録を借りると、

 

「この事件は 、日本人というものがいかにつよい知識欲をもっているかということの証拠として非常に興味がある 。かれらは知識をひろくしたいというただそれだけのために 、国法を犯し 、死の危険を辞さなかった 。日本人はたしかに物を知りたがる市民である 。」

 

結局、松陰、金子らは黒船を降ろされた。彼らは自首した。

 

二人は江戸へ送られた 。国家の大禁をおかした重大犯人ということで 、途中 、その檻送は厳重をきわめた 。

 

松陰はすでに生を捨ててしまっている。

 

この時の心境を書いた記録に、

 

「感きわまりて悲しみ生じ 、悲しみきわまりて大咲 (笑 )呵々」

 

とある。

 

感のきわまるところ悲しみが生じ 、その悲しみの底の底まで沈んで 、にわかに笑ってしまった 、というこの心事は 、禅でいうところの悟達人のそれである 。

 

牢名主という者がいる。もっとも獄中生活の長い者からえらばれた囚人の首長で 、獄内では囚人を殺すこともできるという絶対権力をにぎっている 。

 

牢名主は、

 

「おれの慈悲にすがらねばお前の命はないぞ」

 

と脅し、お仕置き役が松陰の首を掴んで、そのまま顔を板の間にこすりつけた。そのままキメ板をもって背中を打った。儀式であった。

 

だが、もはや命を捨てている松陰にとって、そんなものは通用しない。

 

「私は命を惜しむ者ではない 。すでに死を覚悟して渡海を決意した以上 、どこで死んでも悔いはない。」

 

その口調があまりに穏やかであったため、牢名主は、興味を持ち、なんの罪で捕まったかを質問し始めた。

 

「日本はいま滅びようとしている。」

 

そこからは松陰の独壇場であった。

 

「このときにあたって」と続く。

 

「攘夷々々と念仏のように国中の志士がとなえているが 、ことごとく観念論である 。

 

「空理空論のあげく行動を激発させることほど国を破ることはない 。」

 

「世の事に処するや 、人はまず物を見るべきである 。」

 

実物 、実景を見てから事態の真実を見きわめるべきである…この考えは英雄たる気質を持つ者に共通している。高杉晋作はもちろん、勝海舟坂本龍馬もその類であった。

 

「ここでいう物とはなにか、夷狄の国のことである。夷狄の国を見なければならない。」

 

「そのためにはたれかが海を渡らねばならない。海を渡ることは天下の大禁であり 、犯せば死をもってむくいられる 。しかし死をおそれては国家はすくうべからざる危地におちる…さればあえて渡海をこころみた。

 

牢の衆はみな感激してしまった。

 

やがて松陰は長州萩にある野山獄に身柄を移された。

 

松陰の松下村塾のおこりは 、かれが安政二 (一八五五 )年十二月十五日 、藩命によって野山獄を出され 、実家の杉家で 「禁錮 」ということになったときからはじまる 。

 

ここにおいて、ようやく高杉晋作を登場させることが出来る。

 

高杉晋作は長州萩城下の上士の子である 。明倫館という学校に通っていた。

 

17になる晋作は、学問や学校というものが 、自分の精神を戦慄昂揚せしめるものではないということに気付き始めていた。

 

余談であるが、本来 、学校というのは平均的な青年にとって十分な意味をもっている 。

 

もともと教育という公設機関は 、少年や青年というものの平均像を基準とし 、一定の課程を強制することによってかれらの平均的成長を期待しうるものとして 、そのような想定のもとに設置され 、運営されている 。

 

自然 、平凡な学生の成長にとっては学校ほど有意義な存在はないかもしれないが 、精神と智能の活動の異常に活潑すぎる青年、すなわち天才にとっては 、この平均化された教授内容や教育的ふんい気というものほど 、有害なものはないかもしれない 。

 

高杉晋作は、まぎれもなく、天才であった。彼は学校がたまらなくつまらなかった。

 

そんな中、学友であった久坂玄瑞に、松下村塾吉田松陰という先生を紹介されることになる。

 

これにより、吉田松陰という、「理念的思想」を実現しようとしてことごとく敗北した人間が、その信念の昇華を託すに相応しい、高杉晋作という天才的大器と出会うことになる。

 

つづく。

Fate/stay night [Heaven's Feel]III.spring songをレビュー~ Kの思索(付録と補遺)vol.108~

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Fate/stay night [Heaven's Feel]III.spring song(以下、HF)を観てきたので、前作に引き続きそのテーマをつらつらと書いていきたい。ネタバレがあるので、鑑賞後に読むことをお勧めする。

 

前作の記事を下に貼っておく。まずこれを読んでもらうと、以降もスムーズに読み進めて頂ける。

yushak.hatenablog.com


Fate/stay night [Heaven's Feel]のテーマは、つまるところ「正義のあり方」である。


それはFate zero(以下、zero)の衛宮切嗣から続くものであるということは、これまで繰り返し述べてきた。


おさらい的に振り返れば、これまで正義の形は以下のように語られてきた。


すなわち「誰も彼も救う」という形の正義は、理想的ではあるが実現困難であるということ。


この理由は、一方の正義が一方の悪になってしまうことによる。


これが、すなわち「どちらの船の客を救うか」というzeroにおける問いに現れた。(ちなみにこれは正義論講義において有名な「トロッコ問題」の置き換えである。)


切嗣や未来士郎(アーチャー)は、この問題を悩み抜き、「少数を犠牲にして大勢を救う」という道を選んだ。(ちなみにこの選択を功利主義と呼ぶ。反対は義務主義である。)


しかしそれは、やればやるほど理想に反していく。なぜなら「犠牲にし続けた少数が、いつしか救ってきた大勢の数を上回る」ことになるからだ。


ここに衛宮切嗣は挫折し、愛する人すべてを切り捨てるという結末に至った。最後に見ず知らずの士郎を救うことで、zeroからやり直すこととなる。


アーチャーである未来士郎においても、切嗣と同様の結末に至る事を知りながら、それでもその道を諦めずに行くことを選んだのであった。


そして本作のHFシリーズでは、どうか。


桜を殺してしまえば母体を消滅させることができ、大聖杯の完成を妨げ、冬木の悪夢の再来を抑えることが出来る。


しかし凛も士郎もそれをしなかった。桜を救って、大聖杯はそのままに取り置いたのだ。


ここにおいて正義の問題は極まる。


すなわち「救いたいたった一人を救うために、その他を犠牲にする」という正義の形がテーマとして描かれる。


繰り返すが、「世界を犠牲にして自分が救いたい人だけを助ける」ということ行き着くのだ。


お分かりだろうが、この考え方は、ともすれば非常に利己的な考えであり、この選択をした人は、この世界から最大悪として認められるだろう。


故に、こうなる。


誰もが認める正義の形を、個人が実現可能な形で目指していくと、それがいつしか、誰もが認める悪の形で決着する。………


もはやここに至っては、正義を成そうとする彼の行動そのものが、その他大勢にとっては悪であることになる。


どうすれば良いのか?


彼がいる限り悪が成るなら、彼はいなくなったほうが良いのではないか。


言峰綺礼が、衛宮士郎のことを、「自分と同一の裏返しである」と言及するのは正にこのことにおいてである。太極図の陰と陽のようなものだ。


「自分の理想を実現したい」という彼らの純粋すぎる「正義」において、それがどちらに向いていたかの違いでしかない。


衛宮士郎はみんなを救いたいという理想を向いていたし、言峰綺礼は大聖杯の完成によって新しい世界の誕生を達成するという理想を向いていただけである。


ただ、衛宮士郎の中にあって、言峰綺礼の中に無いものがある。


それが、「自己犠牲」である。


いわゆる英雄(ヒーロー)と呼ばれるものの多くが、この思想を持っている。自己犠牲を持ちつつ、何かを成そうとする姿に人は心を打たれる。


この思想を持たないままに自分の理想を実現しようとするものは、反英雄と呼ばれる。


さて、この問題を巡る正義と悪の一つの境界らしきものに、「自己犠牲」があることが見えた。


これが太極図における白と黒の区分けーー有るようで無い「空の境界」ーーである。


自己犠牲の究極はどこに至るか?

 

それは当然ながら、自分の死である。自らの理想の実現、使命の達成のために、自分の命を投げ捨てることである。


「どちらも救うために、自分が死ねばいい」という考え方である。


これは武士道そのものである。仁とか義とか誉のために、自らを犠牲にする道である。


ただし士郎のこの考え方は、散々と凛が注意していた。あなたは自分の命を顧みていなすぎて危険だと。もっと自らを大切にして欲しいと。


まずは自らを優先して救った後にしか、他人は救えないのだと。(ちなみにこの問題をさらに深掘りした作品として、化物語シリーズの「終物語」がある)


今作の最後に士郎が選んだのはそういう道である。


彼がイリヤの前で「生きたい!」と叫んだのは、自己犠牲の廃棄に他ならない。


「境界」を捨てて、英雄を捨てたのだ。


彼が救うのではない。彼が救われる道を選んだのだ。


これは彼という存在を構築するコアを捨てたようなものである。故に彼は生まれ変わらざるを得なくなった。


皆を救うという正義も、切嗣の目指した正義も、アーチャーの目指した正義も、全て捨てた。捨てた先にあったのは、英雄たることを捨てることであった。


英雄になることを辞め、一介の人間として、ただ一人に寄り添い、共に歩む。


浮き足立つ非凡であることをやめ、地に足をつけた凡として、一歩一歩進むことを選んだのだった。


この結末に桜が咲く。桜は散っていく。すぐにただの風景と化すだろう。特別なものは何もなくなり、誰も気に留めない。それが彼らの選んだ道である。

 

そうしてこの物語は幕を下ろす。

 

儚い祝福を桜にして、春はゆく。

前線という現場・現実に飛び込まずにペラペラ語る思想家を「夢想家だなぁ」と思って眺めている話など〜Kの思索(付録と補遺)vol.107〜

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【前線という現場・現実に飛び込まずにペラペラ語る思想家を「夢想家だなぁ」と思って眺めている】

 

自分が思想力のある人間だと自覚するものが、最も注意しなければならないのは、世界を最初から思想で完結させる事だ。

 

つまり前線にもいかず、机上で、勝手に、最もらしい前提から出発して、思想だけで答えを出す事だ。

 

というのも、彼の考えるその「最もらしい前提」と、それから積み重ねられる「合理的思想」は、前線や現場に至った時にほぼ間違いなく崩壊する。

 

何故か。

 

前線や現場では、常に合理ではどうしようもないことが起きているからである。

 

結局のところ、もし自分の世界をどうこうしようと思えば、この合理ではどうしようもない部分を破壊する必要がある。

 

理想主義的な思想家は、この場合「合理的に考えれば絶対私が正しいのに…みんな間違ってる」と言って、ありもしない自分だけの思想世界に閉じこもる。

 

これが最も危険なのだ。

 

現実と理想の主義をバランスよく合わせた思想力とは、そういう合理ではどうしようもないところの打開策を得るために、自分に対する確固たる信念や使命を構築するために使われる。

 

いずれ合理でなんとかなる問題まで至るが、その時はもはや自分でなくても解決できるほど単純なものに分解されている。

 

一般原則として、まず得たい成果物を見極めよ。その時、自らに全く情報がないのならば、思想からスタートしてはいけない。まず足を動かして前線に出向くべきである。

 

そこから情報を得て、手を動かし、再構築してみる。そこから何が見えてくるかということで、最後に頭を使う。

 

足→手→頭である。

 

余談だが、ジークンドーで最も重要なのはフットワーク、すなわち足である。

 

その足で地面を蹴った波が全体重を乗せた状態で手に伝わって、フェンシングの突きのように飛び出す。これがストレートリードである。

 

この時まで考えてはいけない。その時間が隙になるからだ。

 

故にブルースリーは「Don't think! Feel.」と教える。

 

もちろん相手がどう立ち回ってくるかは理知的に考えなければならないが、あくまでも感応力が最優先である。

 

その点だけみれば、ジークンドーの教えも足→手→頭である。

 

ただジークンドーの本質は、最終的には無形であらねばならない。ただ一つの有形例では、例外に対応できなくなるからだ。

 

その点、上記は一つの有形例にすぎない。戦闘は無数の例外、奇策、虚と実が錯綜したカオス系である。

 

ジークンドーだけに限らず武術家は、カオス系に処するための有形を、あらゆる有形が昇華して無形となった本質の中から取り出す。

 

余談がすぎた。

 

合理でなんとかならない部分を解決した人間は、他者から見ると、実際何をしたのかがよく分からない。いつのまにか事態・方針が変わっており、魔術のように見える。だから「あいつはうまくやった」としか映らない。

 

何故か。

 

彼が動かしたのは物的なものではなく、他者の行動だからである。

 

さらに思想家的な抽象度を上げた述べ方をすれば、この「合理ではどうにもならない」というのは計算に入れるパラメーターが多すぎるということである。

 

前線では多量の不確かな情報、人間関係、政治的圧力が錯綜して、あたかもカオス系のようになっており、このような状態において一般解は存在しない。

 

【学校の勉強が役に立たないと言われるのは、それが貴族の教養にしかなってないから、などと考える】

学校の勉強を抽象的概念に昇華して述べれば、ある基礎的な情報を、与えられた制約条件の中でこねくり回し、別の問題に対して応用しながら適用する能力構築である。

 

これだけ聞けば、仕事にも適用出来る感じがするが、しかしやはり学校の勉強と仕事は全く違う。

 

仕事の場合は机上で完結できないし、他者という要素が多分に関与するからだ。

 

確信を深めつつあるのは、やはり学校の勉強は「識者」に至るためのもので、しかしそれは専門家という意味ではなく、ある一種の貴族の教養主義的な意味であるという事だ。

 

貴族社会で完結しているなら、お互いの力量が教養で試されるために役立つが、戦場に放り出された貴族は教養で相手を倒せない。

 

仕事においては、「余人をもって代え難い」という人物が最も金を稼ぐ。

 

そのためにはドラッカーも言う通り、自らの強みを知り、それをひたすら伸ばす機会を見つけて実行するのみだ。

 

学校教養が高いというのはベンチマークであって、それだけである。

 

君の強みも現れない。

得意な科目があるだけだ。

 

【本や長文を読む時に目が滑って内容が全然頭に入ってこない人はだいたい受動的すぎている。能動的になるやり方を書く。あと速読には意味がない。】

 

本や長文を読めない人へのアドバイス

とにかくその内容を読みながら「要約」していくと良い。なぜか。

 

要約ってのは「理解」してないとできないからだ。


本を読めない人や、速読をとかく重視する人ほど、ただ文字を「追ってる」だけで内容が全然自分の頭で咀嚼できてない。これだと実戦で使えない。


経営本を100冊速読で読んだ人より、例えば一冊ドラッカーを、自分の頭で咀嚼しながら、自分の環境ならどう当てはまるか、どう実戦適用するかを考えながら、真剣に読みきった人の方が絶対に強い。


せっかく本を読むなら、「本を読むこと」それ自体を目的にしないことだ。それができるのは活字中毒の人だけだ。


あくまでも本の「内容」を、自分の環境にどう実戦適用するかという、生存戦略としての道具として読むこと。あくまでビジネス書は。


結局のところ本を読むというのは、その作者の主張を理解し、「議論を試みる」ということである。


例えばビルゲイツの本の読み方は、ページの至る所に自分の意見や反論、疑問をメモ書きしまくるというものだが、これは上記の点で本質的である。


本は、ともすれば非常に受動的なもので、自分の頭を全く使わないようになるリスクを常に孕む。


いわゆる悪い意味での「多読家」が、実践家に論破されることが多いのはこの為だ。一度も自分の頭で考えたことがないのだ。

 

偉い先生の言うことは正しいと鵜呑みにしないためのビルゲイツ読書法である。

 

【有能とか無能とかを安易に語る人は、自分の努力だけで人生の全部のことが成されていると思っていて若いなぁと思う話。恐らく老練な人ほど運を味わい深く識る。】

 

有能とか無能とかいうことで全人的な評価を決めるというのは、神への叛逆(といえるほど愚かな思想)である。

 

史家はあらゆる人生を見て、その成果が多分に運や天啓と呼ばれるものへ絡みついていることを知る。

 

上記のことで人を判断することが、いかに視野狭窄かつ浅い思考であるか良く分かっている。

 

どんな大きな成果を出した有能と呼ばれる人間であれ、死ぬときにはただの風景として自然に還っていく。

 

これは、逆に無能と呼ばれ、しかしながらその人生は自然とともにあった人間と相違がない。

 

人間というものを一つの、神の創作物である自然という風景であると見た時に、彼らには全く優劣がない。

 

また歴史の方向性も、常に塞翁が馬であり、偉人とされる人物の行為は、必ず善でもあり悪でもあった。

 

ここにおいても人間的な優劣は消え、ただ歴史の変化としての原因と結果があるだけになる。

 

そういう面においても、どんな人間であれ、歴史の流れという自然と同一でしかない。

 

【よく哲学がなんの役にたつのと聞かれるが、勘違いして欲しくない。哲学者が残した思想が役にたつわけじゃない。彼らの哲学的思考プロセスを見て、それをお手本にして、ありとあらゆる問題を作り、解決し、周囲の人になるほどという驚きをもたらせ】

 

現実的な哲学とは、絡まった糸を目撃し、その糸を解くことにある。絡まった糸の存在そのものを疑うことではない。

 

絡まった糸を目撃し、それをありありと実感しているのに、言語の操作でそれを消そうと努力するのは現実的な哲学でない。

 

絡まった糸が存在すること自体の解決は神秘に属する。

 

哲学が哲学自身を哲学し、哲学がなし得る仕事およびその限界を発見することは、正に哲学の仕事である。

 

また哲学が成し得ない仕事が神秘の解明であることを発見するのもまた、哲学の仕事である。これが絡まった糸を解くということである。哲学の実践は本来このように成される。

 

現実には至る所に絡まった糸が散乱している。(課題とか目的とか謎とかのありとあらゆるもの)

 

哲学の仕事のやり方を知らない人には、それはただ絡まったままに、力任せに解こうと引っ張られている。

 

これを言語により明晰に解きほぐすことで「なるほど」という驚きをもたらす使用が哲学の仕事である。

 

【様々な哲学の型を学び、一つ一つの有形を知り、それらが組み合わされて昇華され、彼自身の無形の哲学を得る。しかしその無形は、無形であるというただその一つにおいて有形であり、確立している】

 

無形の哲学を体得した者は、それを考える必要がないから、出てくる言葉のひとつひとつが自然であり、淀みがなく、筋が通っている。

 

彼は存在自体が無形の哲学の形態であるため、無理に教えようとしなくても、ただそこにいて、彼の思うまま何事かを語らせるだけで、人が彼から自然と学んでしまう。

 

 

【何を伝えるべきかを考えていない人、自分の話を凝縮して伝えようという心がけがない人は話が長くなる】

自分の知っていることを一から全て説明しようとすれば、時間がいくらあっても足りないし、聞く方は捉えどころが無い。


だからそれを分かってる人は、彼の持つ広大な知識を、できるだけ「1にして吐き出す」ような話し方をする。

 

故にそれは簡潔でありながら真を捉え、早口でなくても密度があるのだ。

 

APEX LEGENDS ダイヤランク到達法の解説〜Kの思索(付録と補遺)vol.106〜

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エーペックスにおいてダイヤランクに到達した。フルパーティは一度も組まなかった。費やした時間の半分は野良とプレイした。


そのような状況のもと、どのような戦術視点でもってダイヤまでランクを挙げたかを解説する。

 

プラチナ帯まで上がるための基礎的知識は既に下記の記事にまとめてあるので、初心者の方はまずこちらから読んでいただきたい。

 

yushak.hatenablog.com


まずパーティであるが、これは組めるなら絶対に組んだ方が良い。なぜか。野良とやると、どうしても運要素が強くなるからである。


強い野良もいれば弱い野良もいる、突っ込みまくる野良もいれば、付いてきてくれない野良もいる。協調性のある野良、ない野良もいる。野良同士で殴り合いの喧嘩になることもあった。流石にそのときはふざけるなと思った。


そういう運要素に左右されることになる。運要素はゲームには欠かせないが、運要素が実力性よりも多大に影響するゲームはイライラしてしまい、精神衛生上、良くない。


ただしパーティでやるとしても、フレンドがゴールド帯である場合、プラチナランク帯に混ぜるのは酷である。実感からいってもプラチナ帯とゴールド帯では難易度が段違いである。


ゴールド帯から初めてプラチナ帯に上がった人はわかると思うが、一手のミスで瞬殺を繰り返されるはずだ。立ち回り方も変わってくるので、なんとなく歩調が合わない、ということにもなるのだ。


なので、出来ればプラチナ帯はプラチナ帯のフレンドと組むべきである。またプラチナ4とプラチナ3でもかなりの実力差があるので、出来れば3以上の人と組めるのが望ましい。

(プラチナ4のまま上がれない人は、結局RPがゴリゴリの削られてるか、稼げていないということで、立ち回り方がゴールド帯のままということが多い)


次にジャンプマスターであるが、野良とやる場合特に注意してほしいのは、他パーティとの降下場所の被りである。


君にどれだけ実力があろうが、関係ない。野良が速攻で一人倒され、次の野良も速攻で倒され、1vs3で戦うことになる。もしそれを制したところで、銃声を聞きつけた漁夫が君を襲うだろう。君のキルデスが6以上あるならやってもいいが。


そういうことになるので、ジャンプマスターは野良任せにさせてはダメだ。必ずキャラ選択して、ジャンマス権を奪い取りたい。その上で、敵のいない場所に降りるのだ。奪い取れなくても、最低指示だけは出したい。


ただしこの「敵のいない場所に降りる」というのが、また難しいのだ。被らない期待値をあげる方法としては3つあり、


①後ろを見て、敵の飛ぶ軌跡から、空いてそうな場所を選んで降りる。


②1200メートル以上離れた場所に降りる。


③第一候補がダメだった時の第二、第三候補まで考え、敵の軌跡を見ておく。


これらは当然、距離に応じた最速降りができることが大前提である。もちろんこれら全てを組み合わせても、急激に軌跡を変えてくる敵もいるので、必ず上手くいくとは限らない。


その場合、敵と戦う・戦わないの判断は、基本的には武器やアーマーの状況を見ての総合判断になるが、野良の場合はやめた方が良い。そういうことの確認行為が出来ないからだ。ある程度装備を整えたら、接敵する前に次の場所へ物資を探しに行ったほうが良い。


なぜこれだけ初期の状況を語るかといえば、初期で負けるのがランクマにおいて最低だからである。特にプラチナ帯での初期負け-36RPは、精神をゴリゴリ抉られる。君も味わえばわかる。


円の第一収縮までは、とにかく物資あさりに徹するべきだ。敵との戦闘は可能な限り避けよう。初期戦闘はランクにおいて、特に野良とやるときはメリットがない。繰り返すが、初期戦闘は避けよ!これは超重要概念である。


第2収縮以降も、残り8パーティくらいになるまで戦闘は避けたい。これくらいになると、ノーポイントで死んでもそこまで痛くない。しかも実際にフルパで生き残ってるのは5パーティくらいである。もしここで1欠け、2欠けしている敵を見つけて倒せれば思わず「おいし~!」と叫ぶだろう。


円の収縮が始まる前には、次の円の中に入っているのが理想である。ただし円の中に入っているだけではダメで、必ず高台強ポジを取っておく必要がある。

(プラチナまで来れる人は、高台がなぜ強いかは知っていると思うので、ここでは解説を省く)


なぜなら、ランクにおいて最もポイントを稼ぎやすい状況は、円の収縮ぎわで、ごちゃついている敵を高台からひたすら撃ち下ろす時だからである。逆にいえば、君も円の収縮ぎわでごちゃついてはならない。ただしこれが非常に難しい。


まずそもそも初期においては、次の円がめちゃくちゃに遠いということが起きる。この場合、円に向かいながら要所要所で物資を漁るようにする。


ただし移動距離が遠いだけ、接敵の可能性が高まる。この時も、出来る限り高台から高台、遮蔽物を意識しながら移動する。


ジャンプタワーは出来る限り使わない方が良い。音がうるさすぎて、敵からパーティの位置がバレバレになり、いとも簡単にクロスを組まれて倒されるということが起きる。もし使うとしても、できるだけ高台に降りることだ。


このように高台を取るというのは、立ち回りにおける「最優先事項」である。だから円の収縮が終盤になるにつれて、高台の椅子取りゲームという風になってくる。


個人的な実感として、高台と低台では、キルデスに2倍以上の実力差が付いてしまうと感じる(これは例えば、空手の高段位でも剣道の中段位に勝つのは難しい事に似ている。リーチの優位差があるからだ。)


高台が椅子取りゲームである性質上、どれだけ頑張っても先に椅子を取られている状況に出会う。この際にどうするか。


敵を高台から引きずり降ろさなければいけない。もっとも有効なのは投げ物である。その用途においてはアークスターが最も優れている(グレネードは転がり落ちてしまう、テルミットは距離が足りない)。


そのためパーティ全員が一つも投げ物を持っていないというのは、上位に入り込む期待値を著しく下げるので、避けるべきことである。


もし投げ物もなく、高台から撃ち降ろされている状況で、逃げ場もないとなれば、死を覚悟するか、死を覚悟する(もうそれくらい死ぬ)。

 

逃げ場があれば、ノックダウンをしないこと前提に撃ち返して怯ませ、その隙に別の場所に移動する。バンガのモク、レイスのポータルなど、キャラスキルも駆使して状況を打破せよ。


最終盤まで、この高台を取り続けるという原則は揺らぐことがない。チャンピオンになるのは、大抵の場合、最後に最も高い場所を取っていたチームである。


このように立ち回ることで、ある程度は安定して上位に食い込めるようになる。


もちろん野良とやるときは野良との呼吸があるので、必ずしも上記のセオリーのようにはいかない。野良が無謀なプレーをしても、君がキャリーしてあげるつもりでカバーしなければいけない。その他大勢と一味違うから、次のランクに行けるのだ。


ゴールドまでは、この立ち回りさえ上手ければプラチナには上がれる可能性がある。


しかしプラチナからダイヤに上がるには、それに加えて敵を倒してキル・アシストポイントを稼げなければ非常に厳しい。なぜならトップ3に食い込んでも、ノーポイントなら+4RPにしかならない世界だからだ。


そのため、ここからは上記の立ち回り以外の部分において「ポイントを稼ぐにはどうすればいいか」を解説していく。


まず当然ながら、基礎的なエイム力は必須である。射撃訓練場で練習する際は、できればフレンドと入って、より実践的にやると良い。それが出来なければボットを動かすべきだ。


ポイントとして、綺麗な追いエイムが出来るように意識しよう。この際ヘッドを狙うより、正確に胴体に当て続けることの方が絶対的に重要である。リコイル制御の感覚もそれで学べる。


実は、エイムスティックの操作はほとんど必要がない。むしろ身体の方を動かして、常に敵を画面の中央に捉え続けるのがコツである。


単発銃も同様であり、1発1発をエイムスティックで狙うのではない。常に敵が画面の中央に置かれるようにして身体を動かし、射撃間隔が隔たれまくった連射銃を撃ってるかのようなイメージを持つのが、単発銃射撃のコツである。


武器ごとに腰うちの距離とADSの距離を把握しておくのも大事だ。あまりに近い距離でADSすると、足が止まるリスクが高すぎるし、エイムアシストが効きすぎてエイムがぶっ飛ぶ。目安としては、腰うち時のレティクル内から敵の体がはみ出すような近さであれば腰うちでよく、そうでなければADSである。

 

また撃ちきったとき、遮蔽があるならリロード、無いなら武器替えを素早く行えるように意識づけしてやることだ。


常に動き続けるのも重要だ。実践では棒立ちはただの的でしかない。流石にプラチナまで来て、レレレ撃ちを出来ないというのはないと思うから、ここでは解説しない。


しゃがみレレレが必要かといえば、正直ダイヤまでは不要である。不用意なしゃがみレレレをして動きが鈍ったり、エイムがブレるくらいなら、きちんとしたレレレと、正確なエイムを心がけた方が良い。


そもそもレレレをしなければならない状況に追い込まれている時点で、近くに遮蔽がないということだから、立ち回りが良くないことを証明しているようなものである。相手をすでに激ローにしているか、逃げアビリティのあるキャラを使ってるならまだしも、そうでないなら二人目の敵にやられてしまうだろう。レレレよりも遮蔽の管理の方がよっぽど重要である。


さて実践であるが、とにかくまずはノックダウンしないことが何よりも重要である。本ゲームは、人数有利を作られてしまうとほぼ100パーセントの確率で敵から全力で詰められ、負けてしまう。ひとりの最初のノックダウンが、即時、部隊の全滅に直結する。まさに戦犯と呼んでいい。


戦闘をやめて逃げるタイミングは、味方一人が確キルを入れられたらで良いと考える。まして二人とも死んでいるなら、逃げるしか手はない。絶対に戦闘を続けてはいけない。どうせ勝てない状況を無理に突っ込んで-RPになるのを、なんとしてでも避けるのだ。


これを突き詰めると、戦いの本質はまず、ダメージを受けないことにあると言える。そのためには、相手に気づかれず、隙あらばこちらが一方的に撃つというのが理想となる。


とはいえ現実は理想通りいかないものだ。戦闘を開始すると、どうしてもお互いの肉と骨を断ちあうことになってしまう。戦闘の最中にあって、いかに被弾を避けることが出来るか?


そこで最も重要なのが射線管理である。敵がどこにいるのかをきちんと把握して、高台を取るなり、遮蔽物を確保したりする。撃たれてもすぐに隠れられるようにする。


マガジンを全部撃ちきったために、相手からも撃たれ続けるくらいなら、さっさと遮蔽に隠れてリロードするべきだ。敵にダメージを与えるより、自身の被弾をまず避けなければならない。


敵と目と目があっているならば、撃ちあわないほうが良い。こちらも相手を狙っているが、同時に相手もこちらにエイムが合っているのだ。たとえ撃ち合って勝ったにせよ、こちらもかなりのダメージを避けられない。


これを避けるために最も重要なのは「同じところから顔を出さない」ということだ。君が一度撃った場所、撃たれた場所には、敵からほぼ確実に置きエイムされている。君の周辺のあらゆる遮蔽をクリエイティブに駆使して、毎回違うところから顔を出し、敵を撃つのだ。これは遠距離戦だけでなく、超近距離戦でも同じである。


また一人の敵に大ダメージを与えて追い返しても、敵の位置を知らない限りは無理に追いかけてはいけない。必ず予想外のところから別の敵がスイッチしてくる。ならば最初から、次にスイッチしてくるやつがどこから顔を出しそうか想定して、置きエイムする方が良い。


室内戦などの超近距離戦であれば、不用意に足音を立てたり、走り回るのも危ない。上手い人は足音で敵の位置が完全に視覚化出来ている。そのため、最初から止まるか歩いて置きエイムしている敵には結局、初弾までの速度で負け、よってダメージレースで負けてしまう。


戦闘の中に虚と実を混ぜ、いかに相手を惑わせる事が出来るかがインファイトにおける最重要点である。言ってしまえば、置きエイムされるようなピュアな動きをした時点で負けなのである。


たとえ上記に気をつけたとしても、ジリジリと相手を削れるだけで、ノックダウンに結びつかず、戦闘がいたずらに長引くことがある。「均衡してるな」と思ったら、周辺に漁夫がいないか確認せよ。今か今かと待ち構えている奴らが大抵いる。自分たちはさっさとそこを引き、待ち構えてる漁夫に戦闘を引き継がせるのだ。そのあと漁夫り返せそうならやればよい。


もし敵を一人でもノックダウンさせたら、漁夫が来る前に戦闘を速攻で終わらせるため、嵐のように詰める。これは先にも書いたとおりだ。ノックダウンは詰めの起点になるのだ。


この際に注意するべきは、予想してないところから撃たれてノックダウンすることだ。これは結局、敵の位置を把握してないことによる。高台から撃ち降ろされるパターンが最も多い。また詰めのやり方が雑すぎて遮蔽から遮蔽に移動できてないこともある。できることなら上手く投げ物やスキルを使って、敵を潰乱せしめながら詰めるのだ。


更に、もし上手くいかなかった時にどうするかも常に想定せよ(部屋にコースティックのガスがある、扉を塞がれており素早く開けられない、投げ物に当たってしまった、敵が角待ちしていた等等。戦場では常に予想外のことしか起きない)。


もし勝ったとしても、すぐに漁夫が来ることを想定せよ。敵のデスボックスから速攻でボディシールドを漁り、更に漁れそうならシールドバッテリーを取るのだ。次に弾を取り、その他アイテムは、本当に余裕があれば取る。


戦闘しても、なかなかポイントが取れない場合に想定されるのは「キルポイントが入らない」「アシストポイントが入らない」パターンの2つである。


キルポイントが入らない場合は、エイム力が足りず、速攻でノックダウン出来ていないのである。またこちらが撃つよりも撃たれるダメージの方が多いのである。更にノックダウンさせたは良いものの、確キルまで入らずに復活させられているのである(ただし無理に確キルを入れるのは厳禁だ。パーティを殲滅させることで確キルに繋げよ。ノックダウンした奴は、復活させようとする奴をおびき出す良い餌なのだ。)


アシストポイントが入らない場合は、戦闘に参加できていないのである。また味方が撃っている敵を無視して、別の敵を撃っているのである。味方がノックダウンさせる5秒前までに被弾させていることがアシスト条件である以上、ほぼ味方と同時に同じ敵を撃っていないと、アシストポイントは入らないと考えて良い。アシストポイントがバンバン入るプレデター帯の人たちの連携力が、どれだけ凄まじいかが分かるというものだ。


さぁ、以上のことを意識できればあとは実践あるのみである。粘り強く、諦めずにやってほしい。諦めなければいつか必ずたどり着く。


最低の野良もいるだろう、ラグの酷さで死ぬこともあるだろう、プラチナ帯なのに現行ダイヤランクにやられることもあるだろう、ダブハン爪痕もいることだろう。まったく理不尽しかない。


しかし、そういうあらゆる理不尽を跳ね返し、乗り越えてはじめてダイヤ帯にあがる事が出来るのである。この記事を読んだ人のダイヤ到達を心からお祈りする。

「やりがい」「やる気」「モチベーション」の他力本願〜Kの思索(付録と補遺)vol.105〜

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「やりがい」「やる気」「モチベーション」こそが真に人生に重要な価値観で、それが得られなければ不幸極まりないというような、地獄みたいな価値観を押し付けられる令和社会を見ている。

 

僕はべつにそれが絶対的な価値でも、生き方の真理でもないと思っている。

 

一時的に時代性が過渡期を示していて、声の大きい人がやたらとそれを声高に叫ぶので、それが文化として形成されつつあるように見えるけれど。

 

たぶん人生は、そんなに単純じゃない。夢が叶ったところで完璧完全に幸福とはいかない。

 

僕は、そういうやる気とか、やりがいとか、モチベーションとか、そういう諸々が、結局ことばの上の概念にすぎないと思っている。

 

きっと、真に我々に湧き上がるのは、ことばではなく、快楽か苦痛のそれだけなのだ。

 

そしてこの世は、残念だけど苦痛の方が多い。

 

我々が何かを食べるという行為を見ても、食べられる側の、すなわち殺される側の苦痛が、食べる快楽より少ないなんてことはないだろう。

 

そういう次第であるから、自分の気分が上がる刹那は、ただただ大事だ。

 

しかしながら、無限に降りかかるありとあらゆる雑多な「それ以外」にも乗って、川の流れのように揺蕩い、文字通り自分も流れていくことが自然だ。

 

なんて言ったらいいか、うまく言語化できない。

 

けれど、自分が楽しいって思うコトって、もっと貴重で尊いものだと思う。しかも刹那的であるはずだ。だから大切に慈しむ。すぐに無くなってしまうからだ。

 

本来そういう性質であるものが、人生の全てであろうとすると、色々と誤解するし、いつまでも手に入らないし、苦しくなるだろう。

 

集中しようと思うほどに集中出来ないように、「やる気」「やりがい」「モチベーション」も、それを得ようともがく程に得られなくなるはずだ。

 

僕は、それらが、色んな要因のもとで、結果的に「与えられるもの」という感覚を持っている。

 

すなわち、自力ではなく、他力の本願。

だから感謝しなければならないと思う。

 

もしくは、ただ自己が欲する動きに任せる感覚。

 

そしてそれが楽しめたり、集中できたら、とてもありがたい。そんなのは、たまにしかないからだ。

 

反対に、欲すると思っていた動きが、実は単なる「欲するべきだ」という義務感からくる欺瞞かもしれない。僕はそういう経験の方が多い。

 

そういう欺瞞にいかに惑わされず、またそれ以外のあらゆる雑多にも優しくなれるかどうか。

 

雑多の苦痛を容認できて、たまに訪れる快楽を慈しみたいと思う。

 

結局は全てが人生であって、人生でない部分など、一瞬たりともありはしないはずだから。

APEX legendsもしくはそれに類するFPS強者になるための理論的知識〜Kの思索(付録と補遺)vol.104〜

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100mを10秒台で走るための知識があるからと言って、実際にそれが出来るわけではない。

だからといって、知識を身につけることが無駄になるなんてことはない。

 

知識は、一種の理想だ。

 

知識は、理想の実現に向けて、早く着実に近づくための指針だ。

我々はいつも最初は、知識を意識しながら、手を動かしてみるものだ。

そしてそれがいつしか、意識しなくても出来るようになっている。

 

これを「知識の体得」という。

 

今回話すエーペックスの技術もそのような知識である。もちろん、FPS一般にも活用できる知識だ。

今から語る知識は、体得されることで実際的な意味を持つ。

 

さて負けないためには、まず何が必要だろうか。

 

それは、ダメージを受けないことだ。

 

そのため、ノックダウンされるというのは以ての外である。

チームで1人でもノックダウンされてしまうと、戦闘中に味方の判断する要素が増えてしまうので、より負けやすくなる。(回復するか?戦うか?)

では、どんな時にノックダウンされやすいのか?

 

それは集中砲火される時である。

 

すなわち相手が3人で、こちらが1人というような状況だ。

1人ノックダウンされるだけで、最低でも3人対2人になるので、体力負けしてしまう。

このような状況に陥らないためにはどうすれば良いか?

 

それは味方と前線を合わせ続ける事である。

 

出来れば団子状に固まるくらい、共に動いた方が良い。

とはいえ、あまりに固まりすぎても、敵の裏取りなどに柔軟な対応が出来なくなるので、そこは注意が必要である。

 

また1on1になる立ち回りを意識する必要がある。

 

狭い通路に誘い込むとか、投げ物で拡散させるとか、相手の裏をとるとかの対応が必要になる。

こちらが1人で、2人以上が視認できた場合、基本的には、一旦どうにかして逃げる、ということが正解となる。

視認できなくても、足音を聞いて近づいてくる敵が何枚なのか、予め把握できればなお良い。

 

では次に、さらにダメージを少なくするにはどうしたら良いかを考える。

 

まず通常時は、常に高台のポジションを取るということだ。

 

何故高台が強いのか?

それは、相手の姿、移動位置などが全部見えるからである。

反対に低いポジションにいる相手は、こちらの頭しか見えない。

しかも一旦隠れられると、次にどこから現れるかもわからない。

 

また高台の者は、もし撃たれたとしても、撃ち返す、隠れる、別の場所に引く、などの対応が、早く柔軟に取れる。

しかし低い位置にいるものは、基本的に撃ち返しても、前述の理由(見えている体面積が違う)から撃ち勝てない。

そのため隠れることになるが、隠れるルートも把握されがちで、すなわち、次にどこから身体を出すかも把握されている。

それならと同じ高台にまで登ろうとしても、同じ理由で位置がバレているので、登る動作および登りきった後で撃ち続けられて負けることになる。

 

上記理由により、高台は強ポジであり、常に取り続ける必要がある。

 

多くの場合、円が収縮する前に高台を取ることが必要である。

円の収縮に追われながら安置を取ろうとすると、結局先に高台を取られているからである。

そして円からもダメージをくらい、高台からも集中砲火され、負けるのである。

 

もし高台を取られてる場合の最も有効な策は、投げ物を投げまくって相手を地面まで引きずり下ろすことだろう。

 

さて、高台を取ることで、こちらはダメージを与えつつ、相手からのダメージは受けにくくなることがわかった。

このような方法が他に何かないだろうか?

 

それは「カッティングパイ」を意識することだ。

 

すなわち物陰に隠れながら相手を撃つ。

すぐに隠れられるものがある位置で発砲する。

 

というのも、こちらがダメージを受けた時に、もし物陰がないならば、当然ながら物陰まで逃げる動作が発生する。

結局その動作のうちに、ダメージを与えられ続けて負けるのである。

これを防ぐためにもカッティングパイを意識しなければならない。

 

また相手と腰撃ちの距離感で、正面から真っ向で打ち合う場合には、相手の弾を避けるために、「レレレ撃ち」をしなければならない。

 

レレレ撃ちは、細かすぎても棒立ちと変わらなくなってしまうので、ある程度相手の射線を切れる大きさで、しっかりと横方向に行う。

 

しかしそもそも、腰撃ちのレレレ対決に持ち込まれるのは立ち回りとしては良くない。

相手を一方的に集中砲火できる立ち回りが出来ていれば、最終円付近までは、レレレ撃ちを使う機会は減るはずである(キルムーブは別として)。

 

さて最終円付近になると、高速の判断が次々と求められる苛烈な戦場になる。

 

このような状況では基本的に、ダウンした味方を復活させる優先度は最も低い。

何故なら復活音も相手に聞かれ、詰めるまでの距離も短いので、まず復活出来ないからである。

また復活したとしても、体力の回復中に結局詰められて負けてしまう。

 

そのため、前述した通り、とにかく一人もノックダウンしないのが重要になる。

 

また回復も、時間がかかり、絶大な隙になるので、戦闘中の優先度は高くない。

一度戦闘が始まったら、回復時間は敗北へ進む時間と捉え、チーム内の全体力で相手チームの全体力を一気に潰すイメージが必要だろう。

 

そこで倒しきったら、あるいは回復してもいいだろうが、多くの場合、速攻で漁夫が来る。

彼らはキルログを監視して、いつ戦闘が終わったかを把握しており、もっとも消耗した段階のこちらを襲いに来る。

 

この場合回復は、すでに倒した相手のデスボックスからボディーシールドを高速で拾って着替えることくらいしか出来ない。

しかしそれで、バッテリーを使って回復するよりもだいぶマシになる。

 

漁夫に襲われる場合はこういう次第であるため、どうしてもこちらの体力が不利であり、普通にやっても、結局は体力負けしてしまう。

 

さらに悪い場合として、別部隊に挟まれた場合は、どちらか一方を速攻で倒すしかない。

 

ここからはお互いの射撃技術、すなわちキルタイムの短さがモノを言う領域になる。

 

相手を最速でキルする技術は大きく分けてエイムとリコイル制御だ。

どちらも射撃訓練場で訓練するしかないが、リコイル制御は、エイムに比べると知識で補えるほうだ。

すなわち武器ごとの反動を把握して、どちらにスティックを倒せば良いのかを把握しておく。

 

今のところ、エーペックス武器では以下のようにすれば、ある程度正確なリコイル制御になる。

ライトアモ系→殆ど真下入力

ヘビーアモ系→殆ど右下入力

 

エネルギーアモ系

 ディボージョン→殆ど右下入力

 ハボック→真下入力

 

エルスター→左下右下左下

 

(当然、もっと正確なリコイル制御も出来るが、それらを全て把握するのは大変だろう。まずは上記を学んだ後に挑戦してみても良いかもしれない。)

 

エイムに関してはかなり長い期間粘り強く練習する必要がある。

しかし敵の足音を聞いて、あらかじめ相手のいる方向にエイムを合わせておく「置きエイム」は、常に出来るように意識するべきだ。

 

さて、もはや敗走しか手段が残されていない場合でも、ただ逃げるだけでは良くない。

スキルを使うのは当然として、少なくとも1発だけは、相手に打ち返すべきだ。

相手も少しはビビって、撃ち続けにくくなる。

また相手の位置を知りながら逃げることにもなる。

左右に蛇行して逃げるとか、ジャンプやスライディングするのも重要だ。

 

また逃げて隠れる場所も、あまりに敵の近くでは良くない。

結局詰められるか、投げ物を投げまくられて、身体を晒さざるを得なくなるからだ。

 

撃ち返す、引きつつ隠れて回復、また即後ろ見て撃ち返し、引いていく。これを繰り返して徐々に後退するのが理想だ。

 

以上色々なことを書いたが、究極のエイム技術はこれらを覆す。そしてそのエイムこそ最も言語化不能で、深く、極めるのには時間を要するものである。毎日15分でも、射撃訓練場で練習すると良いだろう。

 

ただエイムを合わせて相手を撃ち倒すだけのシンプルなゲームが、ここまで奥深い。

そして底が見えない。ここには魔的な魅力がある。