Kの思索(付録と補遺)

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日々、雑記したこと~ Kの思索(付録と補遺)vol.115~

焼肉は、油がないものほど、さっと焼いて食べたほうが良い。

厚くて脂の多い肉は、余熱を考慮して中に火を通す。また表面が少し焦げるくらいが、脂の重さに肉の香ばしさが負けない焼き加減になる。

最初から高級な肉を食べると、満足感が出過ぎてしまうから、最後の方で食べた方が良い。

 

 

 

組織のトップオブトップを目指す人、全員に課すべき最高の教育は、「論じず、人を動かしてみよ」という縛りを設けることだと思っている。

そもそも論破は、人の矜持をいたずらにを傷つけ、彼には絶対に従わないと決意させてしまうシロモノである。

また何かを論じ続けるうちは、大衆を行動にうつさせるような、爆発的な感情の動きを呼び起こすことはできない。

 

 

 

コミュニケーションが取れるか取れないかは、その人への興味があるか否かの影響が大きい。

人に興味があれば、それだけ色々と話すことも出てくるだろうが、自分にしか興味がなければ、人から何かを聞こうとは思わない。

止まらない自分語りの原因は、つまりこうである。

彼は他人に興味がなく、聞きたいこともなく、とはいえ他人を側にしながらずっと無言でいるのも居た堪れないので、自分のことを語るしか、場を保つ方法がないのだ。

 

 

 

車の走行距離が、2年で、一日2.7キロ平均であった。

これなら必要がない。自転車でいい。維持費ばかりがかかってしまう。

本当に必要がある時は、タクシーでもカーシェアでも頼めばいい。そちらの方が安上がりである。

こうして物が減っていく。

必要十分の最適化を進めるほど、他人から見るとミニマリストにしか見えなくなる。

 

 

 

歌は、人生をただの舞台とし、自らをただ数ある物語の一部にしてくれる。

歌は、人生の断片に慰めのある虚飾を彩り、現実から一歩引いた視座で自らを俯瞰させることができる。

 

 

 

もし株の保有銘柄を整理しなければならない時は、淡々と、一番うまくいってないものから切るのが良い。

間違っても成果が出ているものから売ってはいけない。

それがたとえ「予想以上の成果が出た」と感じるものでもだ。

更なる予想以上の成果が生まれないと、どうして分かるのか。

 

 

 

睡眠はそもそもフレキシブルなものであるという本能に立ち返って考えた方がよい。

すなわち、動物の睡眠時間は、「暇さ」に比例する。

能動的な作業では、眠気はほとんど襲ってこない。だから、能動的活動時間の長さで、睡眠時間が決まる。

その生理的理由は、逆にもしやることがないのに活動したら、ケガするリスクが高まるだけだからである。

安全確保とムダの低減のため、睡眠する。

逆に活動する必要があるのに睡眠してたら、野生の世界では死んでしまうので、よほどでない限り、眠気は去るように出来ている。

 

 

 

社会学者の宮台教授による講義。

「Aすると、Bという得がある、だからAする」=条件プログラム的行為。

この多くは、人間らしさを失って、入れ替え可能な自動機械=「クズ」となる。

対して「Aしたいから、Aする」=目的プログラム的行為。

これが損得勘定のない行為者=マトモと呼ばれる。

鬼滅の刃ではこのマトモが煉獄さんと紹介している。

では、「悪いことしたいから悪いことする」も、マトモになってしまうのか?もちろんそうではない。

損得勘定を考慮しないとは、基本的に自己犠牲の形を取る。

特に自らの命を他者のために放り投げる自己犠牲が生命体としての極地である。

上弦の鬼である猗窩座と、煉獄さんとのセリフのやりとりが象徴的である。

「鬼にならなければ死ぬ、それでいいのか?」

「価値基準が違う、鬼になるより死ぬほうが良い」

古代ギリシアで広がったこの目的プログラム的行為=倫理による絶対的命令は、その背景に暗黒の時代があったからである。

そこで彼らが学んだのは、「善人ほど早く死ぬ」し、「善行が報われるとは限らない」ということであった。

一方エジプトでは、ヤハウェ信仰が起こっていた。

その信仰では「世界がこのようにデタラメなのは、人間が神の言葉に従わないからだ」とし、聖典を学んだ。

これをギリシャ人は「アホか」と軽蔑した。

ギリシャ人に生まれた信仰は「善人ほど早く死ぬ、だからどうした?」という倫理だった。

 

 

ポンコツ記憶力な私の処世術~ Kの思索(付録と補遺)vol.114~

私は記憶力がダメである。友達に心配されるほど良くない。そんな私が日頃特に意識している処世術を紹介しよう。

 

①「あとでアレやらなきゃ」と思いついた瞬間に、スマホのリマインダー登録

 

記憶力はスマホに外注しまくる。


実際に行動をしなきゃならない時間帯にチリーン。


忘れようがない。

 

だがリマインダーしたものほど、チリーンが鳴るまでもなく、結構覚えてしまっている。

 

リマインダーすら面倒な人は、この方法ではダメだろう。

 

私は「すぐやる」が徹底して出来るタイプの人間なので、この方法が向いている。

 

あと常々疑問なのだが、Twitterなどで備忘録的に呟く人、あれは意味があるのだろうか?

 

ある程度フォローが多ければ、自分の呟きなんて速攻でタイムラインから流されるだろう。

 

また自分のタイムラインを直接何度も見に行くということもないだろう。

 

そうなると、備忘録的な呟きが、再度目に入ることはない訳だから、無意味な気がするのだが…。

 


②仕事のマニュアルは、日記的に作る。


ルーチン的な仕事をこなすには、マニュアルが必須である(私は一度で全く覚えられないから)。

 

一番効率がよく、負担のないマニュアルの作り方は、日記的に残していくことだと思うのだ。


すなわち、ある仕事に関して、やったことを毎日5W1Hのメモ書きに綴って残しておく。

 

本質を突けさえすれば、短文でよい。


すると、その仕事が終わる頃には、マニュアルが時系列で残されている。

 

時系列で残るので、大体そのタスクを終わらせるのにどれくらいの負荷が存在するかも分かる。

 

よって、のちの人が取り組むときの工程感の目安にもなる。

 


③計画は、基本的に立てない。


優先順位は、とにかく雑魚敵の処理からである。

 

RPGでもよくある奴だ。まず雑魚を倒さないと、邪魔されて、ボスまで攻撃が届かないことが多い。


とはいえ、雑魚敵を倒す計画を立てるのは、時間のムダだ。

 

なぜなら、雑魚敵なので、計画を立てるために費やすであろうその時間で処理できるからだ。


また、どうせ計画を立てても、想定外のぶち込みがあって根本から崩れることになる。

 

そういう経験を何度もしているので、目の前の今に集中して、処理しまくる方が、結果的に早いと確信したのだ。


④フォルダ管理は、野口悠紀雄著の「超整理法」で行う


ポンコツ記憶力の私は、どこのフォルダにしまったかを秒で忘れる。

 

それを探す時間が無駄すぎる。


そこで上記の古典的名著の方法を用いる。


シンプルながら、効果大すぎて人生変わるレベルなので、是非読んでみて欲しい。


仕事だけじゃなく、日常の記録保管という課題からも全解放されることだろう。


本質的には「忘れやすい」「うっかりしている」「ポンコツ」という特性に対して、


「そうなりようがない仕組みを創発する」、これに尽きる。


健常者から見ると「覚えりゃいいじゃん」なんだけど、覚えられないと言ってるでしょうが。


この方法を実施したら、結果として

ポンコツ含め万人がそれなりに動く組織の仕組みが構築されると思う。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||をテーマ的側面から解説~ Kの思索(付録と補遺)vol.113~

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エヴァという、25年も続いてきた壮大なシリーズの完結編について述べるために、私は今、何から書けばいいのか分からないでいる。


小説家のヘンリー・ミラーは、「いま君はなにか思っている。その思いついたところから書き出すとよい」といったそうだ。


そういうぐあいに、話をすすめよう。


エヴァという作品は、90年代当時の時代背景を知らずに語ることはできない。


当時は、バブル崩壊後による経済の不安定、阪神淡路大震災オウム真理教事件もあり、社会不安が広がっていた。


これからの破滅的な世界の想像と、エヴァの作風は、あまりにも合いすぎた。


90年代には「アダルトチルドレン」という言葉も流行した。これは文字通り、いつまでも子供のままでいる大人のことだ。


なお、ここでいう「子供のまま」とはどういう状態を指すのか、その具体的な理解が非常に重要なのだが、それは後述していく文章からだんだんと掴めてくると思う。


さてエヴァとは何かを説明するためには、このアダルトチルドレンというワードを避けることが出来ない。


アダルトチルドレンの最たる象徴が主人公であるシンジである。


「14歳は子供だろ」という人もいるかもしれないが、一方で大人にも差し掛かろうとしている時期である。こういう微妙な年齢を描く必要があった。


つまりシンジという少年が、子供から大人に成長するためにーーすなわちアダルトチルドレンにならないためにーー最も重要な思想的転換は何か?ということを描かなければならなかったのである。


なぜか?


エヴァという作品は、明らかに当時の時代背景を意識して作られており、そういう社会的テーマを持った作品が、社会に一表現として打ち出される以上、そのテーマ性を強く訴えることで、社会問題に対する新しい気付きを鑑賞者へもたらさなければならないからである。


さてそれはいい。


問題は、実際にどうだったか、ということである。


結論から言えば、エヴァは社会現象にまでなったが、結果としては、アダルトチルドレンを増やす毒になってしまった。


これは監督である庵野秀明の大失敗であったと言える。


彼の当時のメンタルが、経営を巡る政治劇で病んでいたこともあり、表現がそういう方向に歪んでしまったのである。


TVシリーズ最終回では、全ての伏線の回収を放り投げて精神世界のみを描き、「僕はここにいていいんだ」(=「所在感の獲得」)という、アダルトチルドレンを脱するための思想的根幹だけを鑑賞者へぶん投げて、作品を終わらせた。


当然、多くの鑑賞者がそんなことを理解できるわけもなく、何が「おめでとう」なのか全く真意を理解できず、賛否両論が飛び交いーー主に「ちゃんと作品を完結させろ!」という否がメインだったがーー結局、庵野監督は旧劇場版を作らざるを得なくなった。


その結果としての旧劇、「Air/まごころを、君へ」も、テーマの描き方が歪みまくっていた。いや、伝え方が悪すぎたと言った方が正確だろう。


旧劇に関しては、「何がどうなってそうなったか」という、よくある考察病を、いちど、一切やめて観ていただきたい。そうしたほうが、庵野監督が伝えたかったテーマが霧が晴れるように純粋な形で浮かび上がってきて、捉えやすいのだ。


人類補完計画というアニメの中だけのフィクション、すなわち「人が人の形を失って一つになれば、余計な争いは起きず、辛いこともなく、幸せ」という形而上的にしかあり得ないフィクションを、シンジは明確に否定している。


つまり人間が人間の形のままで、辛いことも含めて生きていく、そのなかで起きる幸せも本当で、リアルだと気付く。現実なのである。


だから自らは自らの形を失わせない。ここにいるという所在を誇示していく。それゆえ他者とぶつかることもあるだろう。シンジの母であるユイは「それでもいいの?」と聞くが、シンジの決意は揺らがない。


そして人の形に戻ったシンジは浜辺に放り出され、アスカの首を絞める(ここからの余計な考察はするな!)


だがアスカはシンジの頬に優しく触れ、その思わぬ行為にシンジは号泣し、直後に一転、アスカから一言「気持ち悪い」と言われ、終劇する。


ここで「どういう感情の機微が起きているか」という考察に陥ることこそ、この作品のもつ毒なのである。このことに関しては少し先で後述する。


要するに、人間と人間が関わる以上、そういう複雑な機微が目まぐるしく絡み合う世界なのであり、シンジがそういう世界を選んだということだけが理解できれば良い。


以上を総括すれば、旧劇のメッセージは「虚構にすがる子供のままではなく、現実に生きる大人になれ」ということに尽きるのである。


だが、結果は逆になった。毒が蔓延した。


社会現象になったエヴァは、「シンジはなぜアスカの首を絞めたのか」「アスカの最後の一言はどういう意図か」「人類補完計画の発動条件は何か」「キリスト教的にはどう解釈できるか」等等という、考察病を発症して虚構へのめり込む大人を大量生産した。

 

そして同時に「人と人とは争う運命なので、関わらない方が幸せ」という、テーマと全く逆の受け取り方をしてしまう大人を量産した。


そういう虚構へのめり込んでしまう大人、現実に生きることの出来ない大人、すなわち悪い意味でのオタクを、アダルトチルドレンと呼ぶことは的確であろう。


念のため配慮しておくが、私は旧劇が作品として大好きである。何故なら上記のように、描こうとしている本来のテーマそのものは、非常に尊いからである。映画的な映像表現そのものも、ブッチギリの凄さであると思っている。


しかしながら、TVシリーズから旧劇までのエヴァという作品は、本来、アダルトチルドレンから脱するための思想的根幹をテーマに持った作品だったはずが、結果としてはその本来の意図とは逆に、アダルトチルドレンをさらに増産するキッカケとなってしまったのである。


以上の説明により、シン・エヴァンゲリオン劇場版:||のテーマ的な解説が根こそぎ終わってしまっていることが分かるだろうか?もし分からなければ、もう一度、シンエヴァを観に行って欲しい。


くどくなるかもしれないが、一応述べておこう。

 

シンエヴァはつまるところ、上記してきたテーマの伝え方における過去の「失敗」を反省し、今度こそは正しく、本当にまっすぐ伝えるという試みに尽きている。


本当に、終始、それに尽きている。


その意味で、


シンジ以外のみんなは大人になっている必要があったし、


みんなが汗水垂らして働いている中でウジウジしているガキだけが取り残される必要があったし、


ウジウジしていても問題は解決せず、死にたくても腹が減るから食べることをえらばざるを得ないということを描かなければならなかったし、


あまりにチープな特撮的最終決戦や、線画から絵コンテにまで落ちていく描写を用いて、この作品がフィクションであることを訴える必要があったし、


シンジの成長は何かを明確にするために、わざわざカヲルの口から「イマジナリーの世界ではなくリアリティーの世界を選んでいたんだった」と発言させたし、


それらテーマの総括として、シンジがマリの手を引っ張っていくラストの俯瞰風景は、もはやアニメではなく、現実になっていたのである。


そしてこれらのことは、シンジだけでなく、エヴァに関連するほとんどの主要なキャラクターを通じて語られていく。


彼らアダルトチルドレンの決着がどのように付くのか、注目して観ていただきたい。


余談であるが、旧劇では人類補完計画の停止トリガーはシンジであった。シンジが本当の意味で大人になることで、すなわち現実を選ぶことで、停止した。


だがシン劇では、人類補完計画の停止トリガーはゲンドウである。ゲンドウが大人になるのである。


旧劇では、その愚かさーーいつまでも死んだ妻を追いかけ、子供に向き合わないガキーーゆえに、ユイに頭を喰われて死ぬことになる男だが、今作における彼のラストは美しい。


ゆえに「そうか、ここにいたのか、ユイ」とゲンドウが気付くシーンこそ、本作で私が最も尊いと思う瞬間であった。

 

我々も、この作品に別れを告げ、そろそろ現実へと行かねばならない。

 

しっかりと働き、時に人とぶつかり、1日の終わりには風呂に入って飯を食い、縁があれば恋愛し、子供を育て、そうやって、ただ生きるために日々を生きていく。辛苦だらけの現実に、時に迷いながらも向き合って生きていく。それが大人になるということである。

 

エヴァという作品から、本当の意味で別れを告げてこそ、この作品を本当に理解したということになるのである。

2020年個人的映画ランキング~ Kの思索(付録と補遺)vol.111~

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今年も年末の定例企画として、今年観た映画のベストを発表していこうと思う。なので、旧作も混じっている。


興味を持ったものは、正月休みのお供にでもして貰えれば幸いである。


ベストの前に、まずはワーストをひとつだけ発表する。


ワースト1

ミッドサマー

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【あらすじ】(Wikipediaより)

 

原題は、スウェーデン語で夏至祭(ミィドソンマル)を意味する。アメリカの大学生グループが、留学生の故郷のスウェーデン夏至祭へと招かれるが、のどかで魅力的に見えた村はキリスト教ではない古代北欧の異教を信仰するカルト的な共同体であることを知る。この村の夏至祭は普通の祝祭ではなく人身御供を求める儀式であり、白夜の明るさの中で、一行は村人たちによって追い詰められてゆく。


【感想】

文化というものに対して、大きな偏見と嫌悪を植え付ける可能性があるというこの一点において、極めて不愉快であった。

 

まさに宮崎駿のこの画像の気持ちであった。

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いいシーンをひとつだけあげるとするなら、最初の人身御供シーン。

 

動転する主人公達に、ホルガの村の人々が全身全霊で「これは私達の文化なの」と理解させようとする。この時点では、文化に対しての尊重を感じた。

 

だが彼らは映画が進行するにつれ、外部者に対して、「自らの文化のもとで正当ならば、外部者の意思に反する行為でも、好きにしていい」とする動機として、まさにこの文化を使いだす。ここからもう不愉快で仕方なかった。

 

自らの文化を尊重するならば、相手の文化も同様に尊重して然るべきである。

 

だがこの映画は、そういう事を全く考慮せず、ただ自らの文化こそ完全な正当であるとして、他の文化を踏みにじっている。これがすべての文化的断絶・争いの根源である。

 

まぁそれを表現したということなのかもしれないが、で?という感じであり、不愉快なものは不愉快である。最後の主人公の笑顔は、露悪こそ真実というような監督の偏見的で歪んだ思想が透けて見えるようで、鳥肌が立つほどに気持ちが悪い。


酷評したが、ワーストは人によってはベストになりうる映画であるとも思う。現にアフター6ジャンクションでは、リスナーランキング3位、宇多丸ランキングでは1位に位置する。

 

さてここからは、いよいよベスト5を発表していく。


5位

なぜ君は総理大臣になれないのか

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【あらすじ】(映画公式サイトより)


衆議院議員小川淳也(当選5期)、49歳。

2019年の国会で統計不正を質し、SNSで「統計王子」「こんな政治家がいたのか」と注目を集めた。

彼と初めて出会ったのは、2003年10月10日、衆議院解散の日。

当時32歳、民主党から初出馬する小川にカメラを向けた。「国民のためという思いなら誰にも負けない自信がある」と真っすぐに語る無私な姿勢に惹かれ、事あるごとに撮影をするようになる。地盤・看板・カバンなしで始めた選挙戦。

2005年に初当選し、2009年に政権交代を果たすと「日本の政治は変わります。自分たちが変えます」と小川は目を輝かせた。

現在『news23』のキャスターを務める星浩や、安倍政権寄りと評される政治ジャーナリスト・田﨑史郎ら、リベラル・保守双方の論客から“見どころのある若手政治家”と期待されていた。しかし・・


【感想】

政治活動における選挙戦に参加する事は、すなわち一つのスポーツ戦に近いことだと分かる映画。

タイトルにある通り、主人公はおそらく政治家に向いていない。

だが映画全体は悲観的なムードになる事なく、常にスポーツ戦を見るような熱を持っている。

最後の接戦はまさにそれである。

主人公は、思想としてはただ国を良くしたいという純粋な気持ちにも関わらず、様々な板挟みに合い、どちらに転んでも批判されるというような目に遭う。

そして、彼がどんな立場にあるか知りもしない投票者に、「軸がない」と冷徹な批判を受ける。

つまり政治家というものは「理想を実現するために板挟みを受け入れ、どんな批判でも受け続ける」という純な姿勢だと、構造的に、立身出世出来ないということが分かる。

だがそういう構造においても、同じ姿勢を貫き続ける主人公は信念があって良い。


4位

三島由紀夫vs東大全共闘

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【あらすじ】(映画.comより)

 

1969年5月に東京大学駒場キャンパスで行われた作家・三島由紀夫と東大全共闘との伝説の討論会の様子を軸に、三島の生き様を映したドキュメンタリー。1968年に大学の不正運営などに異を唱えた学生が団結し、全国的な盛り上がりを見せた学生運動。中でももっとも武闘派とうたわれた東大全共闘をはじめとする1000人を超える学生が集まる討論会が、69年に行われた。文学者・三島由紀夫は警視庁の警護の申し出を断り、単身で討論会に臨み、2時間半にわたり学生たちと議論を戦わせた。伝説とも言われる「三島由紀夫 VS 東大全共闘」のフィルム原盤をリストアした映像を中心に当時の関係者や現代の識者たちの証言とともに構成し、討論会の全貌、そして三島の人物像を検証していく。


【感想】

行為というものは、常に何らかの思想によって動機付けられている。よって他者の行為が異常に見える場合は、彼の思想がわからないということである。

その思想は、無意識の場合もある。

だが、彼の行為を他者に理解させよう、または認めさせようとする場合においては、その思想がどういうものであるのかを伝えるためのツールとして、言語化を要求される。

そして言語化された思想は、ときに理解者を増やすだろう。

「他者の思想を理解する」という事はすなわち、彼の思想が幾ばくかの変遷を受けたことを意味する。

思想が変遷したのだから、彼のこれからの行為も変わっていくだろう。

三島由紀夫がこの映画の中でいう「言霊」とは、そのようなものである。


3位

日本のいちばん長い日(1967)

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【あらすじ】(映画.com)

1945年8月14日正午のポツダム宣言受諾決定から、翌日正午の昭和天皇による玉音放送までの激動の24時間を描いた名作ドラマ。広島・長崎への原爆投下を経て日本の敗戦が決定的となった昭和20年8月14日、御前会議によりポツダム宣言の受諾が決定した。政府は天皇による玉音放送閣議決定し準備を進めていくが、その一方で敗戦を認めようとしない陸軍将校たちがクーデターを画策。皇居を占拠し、玉音放送を阻止するべく動き出す。


【感想】

シンゴジラの元ネタともいうだけあって、物語は常に激論で進行する。

行為を決定する為には、言霊を飛び交わさなくてはならない。

昨今の日本的会議は、批判を受けたくない、緩やかに流れに乗りたい・見守りたいという理由から、発言行為自体を恐れる者や、立場を曖昧にするための意味不明な発言をする者が多く、これにより決定が遅れる傾向にある。

だがこの映画の登場人物達は、全員が責任感の塊であり、立場を明確にした発言をする。

これにより、立場ごとの各正論が、ひたすら会議の場で飛び交うことになり、結果として、決定が遅れるというのが面白い。

会議というものは、埒があかない場合、決定を、その場の最高権限者の聖断に委ねることになる。

この映画の場合の聖断者は、昭和天皇であった。

つまり終戦の決定は、昭和天皇自らが下したのである。

(なお余談であるが、大東亜戦争における日本の「暴走」は、当時の参謀本部が「統帥権」というものを振り回した事に起因する。)


2位

TENET

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【あらすじ】(Filmarksより)

主人公に課せられたミッションは、人類がずっと信じ続けてきた現在から未来に進む〈時間のルール〉から脱出すること。

時間に隠された衝撃の秘密を解き明かし、第三次世界大戦を止めるのだ。

ミッションのキーワードは〈TENET(テネット)〉。

突然、国家を揺るがす巨大な任務に巻き込まれた名もなき男(ジョン・デイビット・ワシントン)とその相棒(ロバート・パティンソン)は、任務を遂行する事が出来るのか!?


【感想】

要するに時間操作における多世界解釈やルート分岐を認めない場合、全ては決定論的に進行するという事である。

時間逆行の操作を起こした場合、それを時間順行側の観測者から見ると、結果が先にあり、それが起きた原因が後から「追突してくる」ように感じられる。原因が分からないのに、そこにすでに結果はあるからだ。

例えば弾痕があるという結果を目撃した時、その原因が必ずやってくる。だが、いつどこでどのようにやってくるかは分からない。これは恐怖に変わるだろう。

加えて、時間逆行を生じさせた決定論的世界においては、ルート分岐が存在しないので、原因と結果の関係は、常に同一の世界線の中で相互作用することになる。

いいかえると、順行側からの原因→結果があり、また逆行側からの原因→結果があるということだ。

だから「原因→結果←原因」(TENET)となるはずで、この原因同士が衝突する「結果の特異点」のようなものが存在することになる。ここが映画のクライマックスであった。

この場合、起源者としての神は主人公だったことになるが、主人公は神であるつもりはなく、ただ決定論的な世界の進行に従わされただけだったという形になる(神の不在)。

ここまでの解説が意味不明だった読者はそれでも構わない。

要するに、上記のことを映像化したことはそれだけで偉業であり、そこに大感動したという事を伝えたかったのである。

 


一位

フォードvsフェラーリ

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【あらすじ】(映画.com)

1966年のル・マン24時間耐久レースで絶対王者フェラーリに挑んだフォードの男たちを描いたドラマ。ル・マンでの勝利を目指すフォード・モーター社から依頼を受けた、元レーサーのカーデザイナー、キャロル・シェルビーは、常勝チームのフェラーリ社に勝つため、フェラーリを超える新しい車の開発と優秀なドライバーの獲得を必要としていた。シェルビーは、破天荒なイギリス人レーサーのケン・マイルズに目をつけ、一部上層部からの反発を受けながらもマイルズをチームに引き入れる。限られた資金と時間の中、シェルビーとマイルズは力を合わせて数々の困難を乗り越えていくが……。


【感想】

タイトル詐欺と言ってもいい。フォードとフェラーリの戦いを描くことが、この映画の本質ではない。

またよく言われているように、企業内政治の清濁を描くことを目的にした映画でもない。

この映画は、プロフェッショナルとは何か?を突き詰めた結果、生きることの目的、すなわち自らの使命を果たすことの本質を浮き彫りにしたのだ。

だからまず、プロフェッショナルとは何かを考えてみたい。

まず「クライアントが求める成果を達成する」ということが、必須項目だろう。

だが、「自分が納得のいく成果を残す」ということも、プロであるほどに尖るはずである。

苦しいのは、この二つが、時に真っ向から衝突することである。

だが、この二つを見事に斥候させてこそ、真のプロなのではあるまいか。

転じてそれが、自らに課せられた使命であることに納得したのであれば…。

この解決の落とし所があまりに尊すぎて、私はクライマックス、画面が見えなくなるほど号泣した。

また、帰りの車の中でも思い出し泣きしたほどである。

今年、文句なしのベスト映画と言える。


以上、今年観た映画ランキングであった。

「高杉晋作と吉田松陰」後半 天才へ受け継がれた狂の思想 高杉晋作の生涯~ Kの思索(付録と補遺)vol.110~

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画像:高杉晋作

 

前回の記事はこちら↓

「高杉晋作と吉田松陰」前半 吉田松陰がペリーの黒船に乗り込むに至る思想的背景~ Kの思索(付録と補遺)vol.109~ - Kの思索(付録と補遺)

 

才気甚だしい者がいる。


そういう人間を、一般的な人々が養われるような画一的で、柔軟性の欠けた、小さな器で受けることは不可能である。


才気甚だしい者とは、ここでいう高杉晋作であり、小さな器とは、彼の通う学校であった。


晋作は言う。


「かれらはただ重箱のすみをつつくように字義の解釈のみをやっている。それになんの意味があるのか」


「思想というのは、字義の解釈を知り、道理を述べるだけでは意味がない。その道理に電光のような力が備わり、聞く相手を痺れされるものでなければならない」という。


思想は言葉であるが、その言葉に力があればこそ初めて、聞く相手の脳の電気信号を発火させ、行動を変えさせ、そこで初めて実際的なものを変化させる事ができる、ということであろう。


そういう意味で、晋作は実際家であった。結果として行動に現れなければ、どんな観念を勉強したところで、意味をなさないという思想があった。行動教である。


さて前回の記事で、吉田松陰の「狂い」は、彼の行動教にその原因の一端をみる事ができると記した。


ゆえに晋作を受け止めきれる「大きな器」こそ、前回の記事で紹介した吉田松陰であり、彼の開く松下村塾だったというのは、自然の流れであろう。


なお、吉田松陰を晋作に紹介したのは、晋作の学友であった久坂玄瑞である。かれは既に松下村塾の塾生であった。また当時の晋作の最大のライバルと言って良いほど優秀な人物である。のち、吉田松陰の妹を妻にし、蛤御門の変で死ぬ。

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画像:久坂玄瑞


そんな久坂が松下村塾入門のさいに書いた志願文書は、現下の日本を憂い、幕府の意気のなさを嘆き、なぜこうしないのかと自らの理想を延々とつらねる内容であった。


これに対して吉田松陰は以下のように評する。


「君の議論は浮薄で、思慮は粗雑である。ゆらい議論というものは、うちなる真心が外にあらわれ出るものでなければならない。君のはとうてい、至誠中よりするの言にあらず。結局、世の流行の慷慨をよそおっているだけある。それならば名利を求める者とすこしもかわりがない。僕深くこの種の文を悪み、最もこの種の人をにくむ」


凄まじい酷評である。


そこかしこで流行する評を物知りのように述べておけば、賢く見られるだろうという久坂の態度を見透かし、激しく罵倒している。おまえ自らの思いはどこにあるのだ、という。


吉田松陰という人物は、あらゆる人間に対し、おそろしいばかりの優しさをもった人物である。しかもその優しさと聡明さをもって人の長所を神のような正確さで見ぬき、在獄何十年という囚人をすら人変りさせてしまったという人物である。


もちろんこの久坂への罵倒はわざとであった。吉田松陰は内心、小躍りしていた。


少し解説しなければいけない。吉田松陰は師匠と弟子という関係を避けていたことはすでに述べた。


要するに松陰は、塾生と対等の関係をもち、自らも教えられようとしていた。そういう自らを教えてくれそうな久坂という大器が入塾してきたことに心躍り、思わず挑戦したのである。


その証拠に、この酷評の翌日、友人に対し


「久坂生の志気は凡ならず。なにとぞ大成せよかしと思い、力をきわめて弁駁を書き、それを送った。久坂がもしこれで大いに激し、大軍が襲いかかるようにして僕方に襲来してくるならば、僕の本望これにすぎるものはない」


と書かれた手紙を送っている。


面白いことに、久坂も獅子のように反撃文を送ってきた。松陰の意、ここに得たりと言わんばかりであった。松陰も嬉しくなり、さらに反撃文を重ねた。


ついには「久坂玄瑞はわが藩の少年第一流」と述べ、入門を許した。


いずれにせよその久坂から聞いた吉田松陰に、晋作は興味を持つ。18歳であった。かれは28歳で死ぬ。ここからの10年が、彼を歴史に刻みつけることになる。


晋作を見た吉田松陰は「奇士が二人になった」と思った。


松下村塾の目的は、奇士のくるのを待って、自分(松陰)のわからずやな面を磨くにある」と、かねて友人たちに洩らしている自分の塾の目的にみごとにかなった人物が、久坂のほかにいま一人増えたと思った。


神の如き人物眼を持った松陰は「久坂の方が優れている」と晋作を煽った。これもわざとである。

 

晋作のような自負心のつよい男は一度その「頑質」を傷つけて破らねばならぬとおもった。ここで晋作の競争心を煽ることで、必ず非常の男として世に立つことになると見抜いた。


晋作も負けずに「どこが劣っていますか」と聞いた。いい加減な言い方を許さない男であった。具体的に指摘してほしいと詰め寄った。


松陰はいよいよ面白く、大いに指摘した。しかも、その言い方は非常に平易であった。シンプルに、まっすぐな言葉で伝えた。


晋作は欠点を指摘されているにも関わらず、聞くほどに高揚した。


これにより、晋作も松陰の師としての評価を確固たるものにした。


松陰の松下村塾は後世に名を高く残しているが、信じられないことに、その存続期間はわずか3年である。


松陰は江戸の獄中に送られた。いよいよ決定的な判決が下るのであった。


このブログでも繰り返し述べてきたことではあるが、今一度述べておきたい。


革命の初期は、卓越する思想を持った理想家が現れ、かならず非業に死ぬ。松陰がそれにあたる。


革命の中期には卓抜な行動家があらわれ、奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとる。高杉晋作がそれに相当し、この危険な事業家もまた多くは死ぬ。


それらの果実を採って先駆者の理想を容赦なくすて、処理可能なかたちで革命の世をつくり、大いに栄達するのが、処理家たちのしごとである。伊藤博文がそれである。


そして歴史の教科書に載るのは、多くはこの処理家たちであり、革命の途中で死んだものはことごとく、その名を忘れ去られていく。


我々は、吉田松陰が死ぬことを知っている。判決は死罪であった。大老井伊直弼による、いわゆる「安政の大獄」である。

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画像:井伊直弼


松陰の死生観を遺しておくには、ここが良いだろう。


「武士は守死であるべきだ。守死とはつねに死を維持していることである」


「死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし。

生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」


辞世の句は、


「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂


晋作は後に松陰の死を知り「師の思想を継ぎ、世を変える役目を果たすのは自分しかいない」と思った。


高杉晋作とは何者であろうか。


松陰は思想家であったが、晋作は思想家ではない。先も述べた通り、事業家であり、現実家であり、実際家である。


思想というのは要するに論理化された夢想または空想であり、本来はまぼろしである。それを信じ、それをかつぎ、そのまぼろしを実現しようという狂信狂態の徒が出てはじめて虹のようなあざやかさを示す。


松陰はその晩年、ついに狂というものを思想にまで高め、「物事の原理性に忠実である以上、その行動は狂たらざるをえない」といった。


思想という虚構は、正気のままでは単なる幻想であり、大うそにしかすぎないが、それを狂気によって維持するとき、はじめて世をうごかす実体になりうるということを、松陰は知った。


そういう松陰思想のなかでの「狂」の要素を体質的にうけついだのは、晋作であった。


晋作は思想に酩酊するような性質ではなかったし、この時期は自らの狂いを懸命に抑えていた節すらある。だが、結果的には、後世の歴史的立場から彼を見たとき、その様は狂であったといえる。


だが、この時期の晋作は、まだ自分というものがわからなくて苦しんでいる。


天才であろう。しかしなんの天才であるかがわからない。ゆえに、何をやればいいのかわからない天才であった。


高杉晋作は後にこう語っている。


「およそ英雄というものは変なき時は非人乞食となって潜れ。変ある時に及んで龍の如くに振舞はねばならない。死すべきときに死し、生くべき時に生くるは英雄豪傑のなすところである。」


変なき時である今、そういう時の彼は、「放蕩放埒」という言葉をあたかも擬人化したかの如きありさまであった。酒とタバコに溺れた。


そして、女に溺れた。あたかも自らの生命を維持するためかの如くに必要とした。もし婦人と十日も接しなければ、晋作は自分の精神が正常でありつづけることに自信をうしなうほどであった。「英雄、色を好む」というが、晋作は正にそれであった。


このような有り様であるから、「自分は何事もこの世で為すことのない不能の人物ではないか」というおそれと不安と懐疑とが、晋作を、叫びだしたいような心境にさせた。


明確な才能としては、詩があった。


だが、詩文の世界よりもさらに革命という、詩を現実化するほうにその才能があったとは、晋作自身、この時期はあまり気づいていない。


1862年高杉晋作は海をわたって上海へ「洋行」した。当時の日本人にとって、驚天動地といっていいほどの重大事件である。鎖国は幕府の祖法であり、晋作の師である吉田松陰は、ある種、洋行を試みたために死んだのだ。


ただし晋作の場合は幕府からの派遣使節として、すなわち正式な認可を得た形での洋行である。これは晋作が上士の出であったことがまず一つの理由としてある。どんなに人物が偉大でも、その人物に相応しい馬でなければ、大きくは動けまい。晋作の場合は、その馬が「上士」という立場であった。


そして運のいいことに縁が巡り、洋行の人事を担う周布政之助に海外を見るにふさわしい眼力があると認められた。それがいま一つの理由だった。


そもそも日本の歴史にとって、洋行というのはそれ自体が異変でありつづけている。思想が一変し、文化までが変化した。遠く最澄空海が唐へ行ったがために日本の文化状況が一変したことでもわかるであろう。


ともあれ晋作ら一行をのせた「千歳丸」が長崎港を抜錨出港したのは、1862年4月29日の早暁であった。目的は貿易調査である。当時の幕府はすでに通商条約は結んでいたが、まの抜けたことに肝心の貿易実務がわからないのだった。それを実地で見てくるのである。


上海港では、日本中を震撼させたあの黒船が無数に停泊していた。晋作は改めて「西洋」というものの富力の大きさ、文明の発達度に衝撃を受けた。


結局、晋作は2ヶ月上海にいた。


この間、商館の外国人から「幕府が通商したがっているのに、大名が反対しているために事が運ばない。日本では幕府よりも大名が強いのか?」というような質問をされたりした。


そういう外国人から見た対日観に触れた晋作は「なるほど幕府というのは、藩を集めて押せば倒せてしまう、朽木のようなものではないか」という実感を得た。彼はこのとき「革命」を生涯の事業とすることを決意した。


さて晋作は上海から帰ってきて早々に、革命の大戦略を立てた。


長州藩は滅んでも良い」ーーそれが骨子であった。自らの藩を滅ぼすことと引き換えに、革命を成そうとした。肉を切らせて骨を断つーーどころではない。骨を切らせて骨を断つ、死中に活路を見出すやり方であった。


結局、のちに長州藩は滅亡寸前まで追い込まれることになる。だが坂本龍馬薩長同盟などもあり、晋作も龍馬にはだいぶ無茶なお願いをして、結果として革命は成る。しかしすでにこの時点で、滅亡の覚悟を持って作戦を構想していた。そういう人物は晋作以外にいないだろう。


彼は戦略家であると同時に、戦争家であった。戦争が好きであった。そういう血の騒ぎを、常時は放蕩放埒を持ってなんとか沈めているような男であった。彼のような男には「日常」や「普通」が理解できないだろう。


まずは外国を怒らせる。そして戦争に持ち込む。万人が侵入軍と戦うだろう。既成の秩序は壊れ、幕府も何もあったものではなくなる。そういう攘夷戦争の中から、民族としての統一を生み出し、新国家を樹立する。それをやってのける以外、その他全ての革命理論は、たんなる抽象論にすぎないと思っていた。


英国の植民地だったアメリカは、英本国と決戦することによって人心が団結し、ついに砲煙のなかでアメリカ合衆国を成立させたが、晋作はそれをやろうとしている。


この時期から彼の行動は、後年、伊藤博文が晋作の碑に碑銘をきざんだように「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」というようになる。


まず外国公使を襲撃すると決めた晋作は、手始めに脱藩する。藩に迷惑をかけないためであった。と同時にこの当時、脱藩というのは捕まれば死罪に値する行為である。


そのような身で、自らと志を同にする「死士」を集った。「御楯組」という攘夷決行の決死団である。二十二人を得た。ほとんどが松下村塾の門生あがりであった。


彼らとともに、晋作は御殿山の英国公使館に火を放って燃やした。その後、幕府は長州人の仕業らしいというところまで調べをつけたが、政治的対立を恐れて、それ以上に踏み込まなかった。これにより、晋作はいっそう幕府という権威の弱まりを実感した。


どうもこの男は自分の命を賭け金にして、幕府の権威を確かめるという博打をしている節がある。


次に行ったのは、師、吉田松陰の改葬である。この安政の大獄大老井伊直弼より直々に死刑を受けた公儀の大犯罪者は、小塚原の刑場に埋められていた。


その遺骨を御楯組の手で掘り起こし、行列で連れ立って、世田谷村若林の大夫山にある毛利家の別荘地へ埋めなおそうという試みである。堂々たる幕府への挑発である。


もちろん晋作は、博打を打つにしても、絶対に負けるという勝負には張らない。


井伊直弼はすでに桜田門外の変で斃されている。これによって政情が大いにかわり、幕府の態度は軟化していた。朝廷は幕府に対して、安政の大獄で罰したものについての大赦を行えと沙汰していた。

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画像:桜田門外の変


晋作は、もしこの改葬を幕吏が邪魔をすれば、問答無用に大槍で突き伏せるつもりであった。ただでは済まないだろうが、天下が騒げばそれでいいと構えていた。


途中、「御成橋」という神聖橋に差し掛かった。将軍が寛永寺に参拝するときにかぎり、将軍ひとりのために用いられる橋である。当然、橋向こうには番所が置かれ、役人が詰めていた。


その神聖橋を目前にした葬列に、晋作は、


「真ん中を渡れ」


と言った。


日当でやとった六人の甕かつぎの人夫は仰天し、「あの橋を渡れば首を刎ねられます」と叫んだ。


しかし晋作は人夫のえりがみを掴んで「渡れと言ったら渡れ」と引っ張りながら、ついに馬蹄を橋にかけてしまった。


番士が驚き、飛び出てきた。しかし正月であったため、一人であった。番士は「この橋が神聖橋であることを知らぬか!」と喚いたが、晋作は大槍を掲げて「どけ!」と一喝した。


そうこうしているうちに、見もの衆が群がって、数百人になった。それを見計らい、「勤王の志士、吉田松陰の殉国の霊がまかりとおる。担い手は長州浪人、高杉晋作である。」と言って、ついに橋を渡り切ってしまった。


幕府の大罪人の、しかも死骨を運んで、将軍一人のためにある神聖橋を渡るなど、暴挙そのものあった。もちろんこの騒ぎはすぐに幕閣へ届いたが、これほどの事件でも幕府は不問にした。


幕府に対する晋作の挑発は続く。


1863年3月11日、京にて行幸が行われた。晋作はその見物衆の中にいた。天子の籠が通る時、この男は大刀を傍に置き、ひざまずき、長々と拝礼した。これは天子を地上で最高の価値とする松陰の教えであった。


さてこの行列に、将軍、徳川家茂もあった。

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画像:徳川家茂

 

当時の幕府の作法で、将軍の顔というのは大名でも見ることができない。上目で見ることすら非常な非礼とされていた。よって、ひとびとはみな土下座し平伏している。


が、晋作だけは顔をあげていた。そして、


「いようーー 征夷大将軍。」


と叫んだ。


晋作は、幕府が手を出せないことを知っていた。彼の戦略眼がよくわかるエピソードである。


この行列は、あくまでも天子の行幸であり、晋作の無礼は天子に対する無礼ではない。だから幕府にそれを咎める機能はない。しかも誰もが天子の行幸を乱すわけにはいかないと思った。それこそ非礼の極みであろう。すべて晋作の計算どおりであった。


だが、晋作という男はまことに不安定な男である。上への振れ幅が大きいほど、下への振れ幅も大きいものだが、このあと程なくして「出家する。坊主になる」といい、庵に籠ってしまった。


晋作の狂いが鎮静に向かったのと引き換えにするかのように、今度は長州藩そのものが狂った。


攘夷を決行するため、米国の貿易船ペンブローク号に対し、藩の艦砲と沿岸砲をもって砲撃したのだ。これが第一戦であった。たかだか日本の一藩が世界中に向けて宣戦布告をしたようなものであった。


続いてフランスの通報艦キァンシャン号へ砲撃し、水兵4人が死んだ。続けてオランダ軍艦メジュサ号へ砲撃した。


さて、このようなやりっぱなしが長く続くはずがない。まずはアメリカの軍艦であるワイオミング号が復讐にきた。惨敗であった。


ここまで4戦1敗である。だが1863年6月5日、5度目の戦いで、フランス巨艦2隻に大敗北する。これは長州藩の自信を根こそぎ削ぐものであった。


人々は英雄を待望した。もはやなりふり構ってはいられないだろう。長州藩主は晋作のもとに使いを走らせた。庵に籠る晋作に対し、使いは藩主の命令を伝えた。


「かつての脱藩の罪をゆるすとのお言葉でござる。いそぎ山口へ参るようにとのこと。火急でござるぞ」


晋作は下関防衛の司令官となった。運命というものはまことに想像ができないものだ。かつて、脱藩し、その後幕府を大いに挑発し、つい先日まで坊主になっていた男が、今や対外戦争にて長州防衛を背負う指揮官となっている。


この時、晋作24歳である。この若造に指揮権を預けねばならぬほど、すでに長州藩は逼迫していた。


晋作は下関に向かいながら、どうするかと考えた。結論としては「新たに一軍を起こすしかない」ということであった。


今回の下関、馬関海峡での戦争で得られた重大な事実は、もはや上士階級の者どもに胆力が無くなっており、みな腰が引けていることであった。徳川政権の長期安泰の中で、家禄だけを継いで暮らしてきた者どもである。当然であった。


比べて、勇敢に戦ったのは足軽階級以下の者達だった。上士になればなるほど命を惜しんで逃げたがった。つまり、


「無差別階級の兵団を創設したほうが強い」


これが晋作の有名な「奇兵隊」である。志が強い者であれば、階級は問わない。この封建社会にあって、この身分を問わない軍隊を成立させること自体、一つの革命であった。

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画像:奇兵隊


下関海峡は、長州藩によって封鎖されている。米仏蘭は「この封鎖を解除しなければ、我々の軍事力によって排除するしかない」と脅してきた。


藩はそれを蹴った。戦略論としては、誰が見てもまったくもって無理無策である。いま、長州に体力はない。それなのに米仏蘭と戦って勝てるはずがない。


だがこういう場合、幕府を含めた政治的なパワーバランスが絡んだがゆえに、通常考えるとあり得ないような意思決定が行われているものである。今回もそれであった。が、その内容は本筋から離れるため今は書かない。


結局さらに英を追加する形で、英米仏蘭という四ヵ国、十七隻の連合艦隊が長州にやって来ることになった。これではどうしようもあるまい。結局、長州藩は艦隊によって逆封鎖され、沿岸は敵の陸戦隊の占領下に置かれた。もはや、どうにか講和するしかない。


よほどの胆力の持ち主でなければ、この大役は務まるまい。この長州藩代表の講和使に、晋作が選ばれた。臨時の筆頭家老まで引っ張り上げられた形である。


アーネスト・サトーという人物がいる。イギリスの駐日公使として、通訳官を務めた。彼は自らの仕事を通じて、明治維新の政治的風雲を広い視野で眺めることができた。彼の書いた日記は、明治維新を知る上で第一級の資料となっている。

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画像:アーネスト・サトー


そのサトーが、今回の晋作と四ヶ国艦隊との講和の模様を日記に綴っている。晋作の様子については、


「魔王のように傲然とかまえていた」


と描写している。


晋作は藩から託された講和書を提出した。司令長官のクーパーは全くあきれた。降伏するともなんとも書いていないのである。まずは謝罪状を持ってこい、交渉はそれからだ、とクーパーは言った。


ところが晋作は「べつに長州藩は戦には負けておらぬ」と言い放った。これにはクーパーも笑い、海岸の荒れ果てた様子を指差して「あれでも負けてないと言うのかね」と返した。


「魔王」はゆっくりとうなずき、「負けていない」といい、続けて、


「貴艦隊の陸戦兵力はわずか二千や三千にすぎぬではないか、わが長州藩はわずか防長二カ国であるけれども、二十万や三十万の兵隊は動員できる。本気で内陸戦をやれば貴国のほうが負けるのだ、われわれは講和する、しかし降参するのではない。」と高々と言った。


無論、ハッタリである。長州は滅んでも良いと言う覚悟が彼の隠された基底にあるからこそ、このような言が放てるのである。


だがクーパーも司令長官を務める男である。さらに鋭く斬りかかってきた。賠償金である。「三百万ドル」と言った。これは長州藩が50年かかっても払えないほどの巨額であった。


晋作は「今回の攘夷は、幕府と朝廷の命によって行われたものである。よって賠償金については幕府が払う」と言った。「魔王」は、朝廷と幕府の攘夷命令書を持ってきていた。


クーパーは、賠償金を幕府に交渉することに同意した。幕府なら取りっぱぐれがないと思ったのである。というのも、幕府がこれに「ノー」と言えないのを知っていたのだ。


もし幕府が「長州藩の責任」と言ってしまえば、長州藩は独立国家であることになり、解釈を拡大すれば、三百諸侯すべてが独立国家であることになる。幕府が日本唯一の正式政権であるという大前提が崩れるのである(現に、この賠償金については幕府が年賦返済し、幕府崩壊後は明治政府が肩代わりした)。


しかしクーパーは念の入った男である。調印の直前になって「あの彦島を抵当として租借したい」と言い出した。「租借」というのは体のいい言い方で、本心には、いずれ我が国の領地にするという狙いがある。


これに対し、晋作は大演説をやり始めた。古事記日本書紀の講釈であった。これにはアーネスト・サトーという語学的天才でも通訳しかねた。


「そもそも日本国なるは、高天ガ原よりはじまる。はじめ国常立命ましまし、つづいて伊弉諾・伊弉なる二柱の神現れまして……」と延々続くのである。晋作の舌は止まらない。


誰もが呆然としていた。皆が「こいつは狂ったのではないか」と思った。だが晋作の方は、2日間でもこれをやって、ゆえに日本は一島たりとも割譲できないと言うつもりであった。流石のクーパーもこれにはたまりかねて「租借の件は撤回する」と言って、調印した。


さて長州は、もはやこの維新の風雲の火薬庫のような存在になっている。「こいつをこのまま放っておいたら、幕府もろとも吹っ飛んでしまう。いっそ滅ぼしてしまえ」という気分が、幕府の上下にみなぎり始めた。いわゆる幕府の「長州征伐」であった。その先鋒は新撰組である。


維新の資料が豊富であることの理由として、書簡が多く残されているというのがあるが、晋作のこの時期の心境も手紙として残されている。


「生とは天の我れを労するなり。死とは天の乃ち我れを安んずるなり。」


要するにこれが、生の目的とは何か、ということに対する、晋作の答えである。すなわち、


「生とは、天がその生に目的をあたえ、その目的のために労せしめるという過程であるにすぎない。逆に死とは、天が彼に休息をあたえるというにすぎない。」


高杉晋作の人生や、大政奉還を成した直後に散った坂本龍馬の人生を思うにつき、上記の思想はまとこに至言であると思わざるを得ない。事を成す英雄のみ、真に理解できるものである。


この思想においては、自らの命はただ天命に委ねられており、それをどう使うかは天の勝手である、という境地にある。


すなわち事が成り、生き続けることになっても、まだ自らには成す事があるという天命が降っているということである。また逆に命が無くなっても、それもまた天命である。だから命を自らどうこうしようと思わない、生きようが死のうが、天の勝手であるーーそういう境地である。


幕軍が大挙長州へ押し寄せてくる。本当に倒すべき敵は外国であるはずなのに、その解決のためにはまず、内部統治のための戦いに9割を割かねばならない。これは政治の力学と言うべき皮肉であろう。


1866年6月7日、幕府は長州に向かって事実上の開戦をする。「四境戦争」と言った。その名の通り、幕府は長州藩国境を四方面から攻めようとした。


周防大島という、長州藩最大の島がある。幕府はこの島をもって海軍の根拠地にしようとした。6月10日、幕府の艦隊はことごとく集結し、陸兵は全部上陸した。


晋作は兵をかき集めた。が、海軍のことなどろくにわからない壮士たちばかりである。晋作は、こういう連中を軍艦に乗せ、共に幕府艦隊と海戦をしようというのであった。無謀を通り越している。


そもそも機関を焚けるものがいない。晋作は、土佐の浪士である田中顕助を指名した。顕助は驚いた。むりもないだろう、彼は蒸気船にすら乗ったことが無かった。後にこの時のことを追憶談になるごとに語っている。

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画像:田中顕助


顕助が「無理です」と断ると晋作は一喝し、


「汽罐など、風呂屋の下働きでも焚けるのだ」


と言った。やるしかなかった。


そもそも長州の軍艦というのは「丙寅丸」といい、200トンしかない。これに対し、幕府の「富士山艦」は1000トンである。軍艦の強さは、そのトン数に比例するというのは常識であったことからも、晋作の無謀さが際立つ。

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画像:富士山艦


余談であるが、晋作は生涯、「こまった」という言葉を吐かなかった。困った、といったとたん、人間は智恵も分別も出ないようになってしまう。「そうなれば死地となる。活路が見出されなくなる」というのが、晋作の考えだった。


しかも晋作には長考という習性がなかった。その思考は常に居合のように短切で、そのくせ桂馬のような跳ね方をし、常に奇道であった。天性の戦略家と言っていい。


その晋作も、この時ばかりは「長考」した。1時間であった。しかも両足は天を向き、頭を畳の上に転がし両手で支えていた。逆立ちの姿であった。この1時間で晋作は幕府艦隊に対する戦略を思案しきった。


晋作は扇子一本で丙寅丸へ飛び乗り、「軍艦の夜襲をやる」といった。この当時、夜戦とか夜襲とかいう思想はヨーロッパにもない。しかも軍艦に関してはズブの素人群がそれをやるというのだ。


晋作は、「要するに、先手をとって幕府の度肝を抜くのだ。度肝を抜かれた兵というのは、ことごとく大したことがなくなる」と言った。


幕府の艦隊が不用意であったのは、ことごとく汽罐の火を落として寝静まっていることであった。とはいえ、夜襲などという概念がない以上、これは致しかないことでもあった。晋作の戦略が上まわったに過ぎない。


汽罐というのは、一度落としてしまうと、そう簡単に焚き直せるものではない。風呂桶の水でも、湯に成るには相当の時間がかかるのである。


晋作は幕府艦隊へ忍び近づいた。海図もなく、暗礁もわからないのに、ろくな操船技術のない素人群がこれをやってのけたのは、晋作の天賦のカンと、運の良さによったとしか言いようがない。


晋作は幕府艦隊への一斉射撃を命じた。と同時に、各艦への間を機敏に動き回った。砲撃の命中率というのは、敵艦までの距離に比例する。この時の距離は、近いなんてものではなかった。目の前に聳え立つ山という形容がふさわしい。砲撃はことごとく命中した。猛烈な損傷を与えた。


この間、幕艦の乗務員の狼狽ぶりは滑稽というほかなかった。汽罐に火を入れる者、甲板を走る者、砲側にとりつく者など戦い以前の問題であった。しかも丙寅丸は小さく、しかも機敏に動き回っているため捕捉しづらい。ついに幕艦は味方の艦を撃ち、さらに味方に撃ち返すなど、大混乱を極めた。


とはいえ幕艦に本格的な射撃用意が整ってしまえば、丙寅丸などは象に踏み潰されるアリ同然である。晋作は引き際も心得ていた。


晋作はこの間、大刀を杖に、扇子を持って、艦首に立ち続けていた。まるで千両役者の風貌であったと語り継がれている。やがて幕艦から黒煙が出始めたのを見て、即座に闇に紛れ、逃げてしまった。1866年6月12日のことであった。このあと幕府艦隊は大島を捨て、長州藩の海域からも遠く去っていった。


「次は小倉城だ」と晋作は言った。まさに雷電風雨の狂いであった。だが同時に、肩で息をしていた。ときに晋作、27歳である。かれは幕軍の根拠地である小倉城を攻め落とし、その生涯の終止符とするつもりであった。

 

晋作はこの小倉城の攻略作戦を、病のために身を横たえながら総指揮した。肺結核であった。もはや立てないほどに悪化していた。凄まじいことに、この小倉城の攻略作戦をも成功させる。


だが晋作は、これで力を使い果たしたと思った。


1867年4月14日、自らの死を悟った晋作は、辞世の句を書いた。もはや力のない文字であった。


「おもしろき こともなき世を おもしろく」


この上の句を書いた段階で力尽き、筆を落としてしまった。枕頭にいた野村望東尼は、下の句をつけてやらねばならぬと思い、


「すみなすものは 心なりけり」


と書いた。


晋作は「…おもしろいのう」と呟き、息絶えた。


27年と8ヶ月という短い生涯であった。

「高杉晋作と吉田松陰」前半 吉田松陰がペリーの黒船に乗り込むに至る思想的背景~ Kの思索(付録と補遺)vol.109~

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歴史というものには本来、始点や区切りといったものはない。連綿と続いてきたものである。

 

そういう意味では、歴史の教科書のように、〇〇時代などと、あたかも区切りがあるかのように名付けて呼ぶのは間違っている。

 

だが、それでも歴史に区切りをつけたくなるほどに、時代が変化した起爆点とも呼べるような出来事がある。

 

今回紹介するのは明治維新である。これにより徳川家300年政権が崩壊し、大政奉還によって、政権は朝廷へと移った。簡単に言えば、将軍支配から、天皇支配へと変わった。

 

明治維新を引き起こした決定的な起爆点はなんだったのかと聞かれれば、それが嘉永6年(1853)の「黒船来航」、いわゆるペリーの襲来である。

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要は、鎖国している当時の日本にとっては圧倒的過ぎる黒船という武力を見せつけ、開国しろと脅してきたのである。

 

徳川政府は不平等な条約を無理やり結ばされるなどしたため、当時の民は反乱を示し始めた。

 

そのために西郷隆盛坂本龍馬、はたまた近藤勇土方歳三率いる新選組などが、明治維新を引き起こす舞台装置となったのである。

 

今回紹介する人物は、高杉晋作と、その師匠である吉田松陰である。

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高杉晋作

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吉田松陰

 

なお先に断っておく。筆者は歴史を書くというよりも、彼らがどのような思想を持って生きたかを書きたくて筆を進めている

 

吉田松陰は武士である。当時の武士は戦国時代の武士と比べると、明らかに「純」ではなかった。いわゆる「武士道」は、徳川300年の泰平が濁らせていた。

 

だが、吉田松陰の叔父であり教育係であった玉木文之進は、生粋の武士であった。

 

吉田松陰が勉学中、顔にたかる蝿にたまりかね、思わず顔を掻いた。それを見た玉木文之進は、吉田松陰を気絶するまで殴った。

 

玉木文之進によれば 、侍の定義は公のためにつくすものであるという以外にない 、ということが持説であり 、極端に私情を排した 。

 

顔がかゆいから書く、というのは私情であり、勉学に励んで公に尽くすという行為に優先されるものではない。少なくとも武士にあっては許される事ではない。そういうことであろう。

 

そんな玉木文之進が開いた塾が「松下村塾」である。ここをのちの吉田松陰が塾頭となって引き継ぎ、久坂玄瑞伊藤博文、そして高杉晋作などの歴史的人物を大量に送り出すこととなる。

 

余談であるが、当時のかれら、即ち武士の初等教育の教課内容は 、四書五経であった。

 

驚嘆すべきは、これらがすべて畑でおこなわれ 、一度も机の上でおこなわれたことがなかったということである。

 

教育者も百姓仕事のために時間がなかったのである。

 

話は文之進へ戻る。

 

彼は、いっさい下僚を叱ったり攻撃したりしたことがなかったという面もあった。

 

どの藩でもそうであったが 、民政機関には賄賂や供応がつきもので 、とくに下部の腐敗がはなはだしかった 。

 

当然文之進の性格からすれば 、それを激しく悪みはしたが 、しかしそれらの患部を剔りとるという手荒なことはせず 、みずから清廉を守り 、かれらが自然とその貪婪のわるいことをさとるようにしむけた 。

 

松陰の文章を借りれば 「自然と貪の恥づべきを悟る如くに教訓するのみ 」 。

 

文之進は 、子弟を育てるについては苛烈きわまりない教育者であったが 、民政家として民にのぞむや 、別人のように優しい人物であったことを 、松陰はこの師のみごとさとして生涯の誇りにした 。

 

そんな文之進の教育を受けた松陰は、10歳にしてすでに「よほどの秀才である」という評判が立っていた。

 

これがために藩主の御前で講義をすることとなったが、およそ10歳とは思えないほどの名講義であったという。

 

講じたのは 、家学山鹿流の 「武教全書 」のうちの 「戦法篇 」である 。これの「用士」のくだりは特に藩主が感嘆した。

 

「用士は士を用ふるにて 、此の篇 、上家老よりして下群臣に至るまで 、其の中にて賢才を目きき挙げ用ふるの法を云ふ 。」

 

と続く。現代にも通用する論と言えよう。

 

松陰が独立の師範になった十八歳の嘉永元 (一八四八 )年 、藩の学制改革について、ぼう大な意見書を書いている。一部を紹介すると、

 

「学校をおこすということは 、単に教育機関をつくるということではない 。これを軸に国家 (藩 )の風儀を一変させるという覚悟をもってやらねばならぬ 。」

 

「文武は一体であるべきである。万世に至るまでこのことは不変であるべきである。」

 

「勉学に伴うて試法 (試験 )が必要である」

 

そして

 

「大器をつくるにはいそぐべからざること 」

 

すなわち老子出典の大器晩成である。これは松陰の生涯の持説であった。

 

ただ松陰は若くして処刑されることになる。その弟子の高杉晋作も短命に終わる。大器晩成の持節は喜劇的な皮肉であった。

 

さらに嘉永二 (一八四九 )年 、松陰十九のとき、再び藩主に召されて、その御前で武教全書の用士篇を講じた 。人材登用法である 。

 

「人には得手と不得手がある 。英雄にも愚者にもそれがある 。それを見ぬいて人の得手を用いるがよい 。」

 

「平凡で実直な人間というのはいくらでもいる 。しかし事に臨んで大事を断ずる人物は容易にもとめがたい 。人のわずかな欠陥をあげつらうようでは大才の士はもとめることができない」

 

まるで、のちの高杉晋作の登場を運命が予期しているかのようである。

 

松陰が傑物であるのは、ここまで秀才でありながら、ともすれば時に自尊心を肥大させ、酔わせる学問という酒に溺れなかったことである。むしろ、そういうものを否定した。

 

松陰がおもうに 、「学問ばかりやっているのは腐れ儒者であり 、もしくは専門馬鹿 、または役たたずの物知りにすぎず 、おのれを天下に役だてようとする者は 、よろしく風のあらい世間に出てなまの現実をみなければならない

 

そういう思想を持っていた。

 

「実行のなかにのみ学問がある 。行動しなければ学問ではない 」

 

と言い放つまでの宗教性を帯びた信念をもっていた。いわば行動教と言って良い。

 

行動教に大きく影響したのは、吉田松陰王陽明の 「伝習録 」という書物を読んだことが第一に挙げられる。

 

また村田清風という老人が松陰を教育にきて、「鉄砲の操法や部隊の進退法に達しない者は戦術を語るな 。つまり実技のやれない者は理論をいうな 。その逆も真である 。孫呉孫子呉子 、戦術 )に通ぜぬ者が 、実技を論ずるな 」というようなことを言ったりした。

 

彼の思想的性格はそういう環境で形成されていった。

 

人間の運命をきめるものは 、往々にしてその能力であるよりも思想的性格によるものらしい。

 

吉田松陰が彼の松下村塾によって行動教を叩き込み、世に送り出した傑物のうち、多くが維新の風雲の中で斃れることになる。

 

ここで読者諸氏は注意されたい。松陰自身、あくまで秩序の重要性は知っていたということを。

 

というのも、松陰の専門は兵学であり、兵学の原理は秩序であるからにして、自然、松陰自身も秩序の重要性は骨身にしみて知っていたのである。

 

だが、松陰は 矛盾した。

 

秩序美を讃美するくせに 、同時にものや事柄の原理を根こそぎに考えてみるたちでもあった 。

 

原理において正しければ秩序は無視してもかまわない 、むしろ大勇猛心をもって無視すべきであると考えた。

 

すなわち原理、目指すべき目的が正しいのならば、それを達成するための手段は「浄化」される。

 

そういう気質は、高杉晋作に引き継がれることになる。

 

とはいえこのころの松陰は、ものの原理が大事か人間社会の法秩序が大事かという 、その後のかれ自身の運命を決定してゆく重大課題については 、まだかれ自身において解決ができていない 。

 

さて、嘉永6年(1853)2月のころの松陰である。

 

すでに先の村田清風老人が「かならず洋夷が日本を侵しにくる」ということを早くから言い 、「そのとき日本を守るべく切りふせぐ者は長州男子である 。」ということを説きに説き 、説くだけでなく兵制改革や士風刷新の重点をそこにおき 、藩内に危機意識をあおりつづけた 。

 

長州藩が幕末 、過度なばかりの危機感にかられて暴走につぐ暴走をかさねるにいたるみなもとは 、この清風の藩づくりにあったといっていい 。

 

松陰はこの老人の危機意識の猛々しさに感動し、感動のあまり 、夷敵の軍艦がやってくることをおもうとき 、すぐ小舟を駆って斬り込みするという反射だけがあたまにうかぶようになった 。

 

とはいえ、西洋ぶねといっても松陰のあたまにあるのは風帆船だけである 。

 

まさか西洋には蒸気機関を積んで自走できる船があろうとは思いも至らず 、そういう驚天動地の大事実は 、この年の六月 、浦賀にやってくるペリ ーによって知らされるのである。

 

この時期の松陰は 「どうしてもこれからは洋学をやらねばならぬ。敵の文明を知り 、敵の武器 、戦法を学び 、そのうえで敵に備え 、敵の来るを撃たねば 、日本は洋夷の侵略するところとなる。」と考えていた。

 

「この上は 、国禁をやぶって外国へ渡る以外にないのではないか 」とまで思い浮かべるようになった。当時においては非常な暴挙である。

 

鎖国は幕府の祖法であり 、もし国外へ密航するような者があれば 、容赦なく死罪であった。

 

だが松陰は 、狂がすきであった 。人間の価値の基準を 、狂であるか狂でないか 、そういうところに置くくせが松陰にはあった 。

 

総括すれば、彼の洋学にたいする熱狂的興味と、目的のためになら手段が浄化される行動教と、観念的理想実現を達成するために現実と真っ向衝突することによって生じる「狂い」への信奉が、彼を黒船に乗り込ませることになる。

 

その萌芽として、松陰は、彼と志を共にする同士のために命をかけて無断の東北旅行などに出向き、罰として浪人の身に堕ちたりしている。

 

黒船到来の第一報は 、幕府から諸藩に正式に通達があったわけではなく 、諸藩それぞれが 、手をつくしてその変報を得た 。

 

ここで少し、ペリーについて触れておこう。

 

ペリーは、日本政府に対し通商をせまるにあたって 、返答によっては日本を武力制圧するという態度を暗に示した。

 

この外交態度は、ペリ ー自身が考えぬいたすえのことであり 、そういう態度を示すことが東洋人に対して効果的であることを 、かれは任を帯びた最初から考えていた 。

 

未開人に対しては 、子供を相手にするようなやりかた 、つまりこわがらせるのがいちばんいいというのがかれの理論であった。事実、これは成功する。

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さてこの時期、松陰は、佐久間象山という学者の塾に入っていた。

 

前述してきたように、松陰の学問成績は優秀であった。その優秀さゆえに、自分はなんらかの専門家的気質があるという考えに囚われていた。

 

だが、松陰はこの時期 、気づいていなかったが 、かれの無意識の志向やら性格やらは 、専門技術を習得したり 、それに熱中したりすることにはまったくむいていなかったらしい 。

 

象山塾は 、語学塾でもあった。せっかく通学しているのに 、ことばをおぼえねばならぬと自分を叱りつけてはいるのだが 、どうも気が乗らない 。

 

(これをおぼえねば 、西洋兵術に達することができないのか )と 、ときに絶望的な思いになったりした。

 

語学を覚えることが、自分のなすべき方向へ、直線的に結びついてるのかどうか。

 

要するに、松陰は専門者でなく総合者であるようだった 。

 

そのするどい総合感覚からあらゆる知識を組織し 、そこから法則 、原理 、もしくは思想 、あるいは自分の行動基準をひきだすことが、彼の天性であった。

 

十二日に 、ペリ ーの艦隊が去った 。町には活気と安堵が広がった。しかし松陰は、安堵するのは間違っていると思った。思うだけでなく、あちこちで論じて回った。

 

しかし結局彼の「行動」も、所詮はただの書生風情が 、書生仲間で激論するだけの行為であり、何も変わらないと感じ始めた。

 

では、何をすれば良いか。

 

「藩公へ意見書を奉るつもりです。」

 

この松陰の言葉には象山も驚いた。浪人が 、堂々たる大藩主に意見書を出すなどは 、この当時 、考えられぬほどの 、僭越沙汰であった 。

 

だか、象山のみるところ、松陰のこの行動は、原理としてきわめて正しい 。

 

松陰はいま天下はなにをすべきか 、ということを藩主に文書によって説こうとしている 。

 

それも抽象論ではなく 、具体的に長州藩主毛利慶親という人物が 、きょうからなにをすべきかということを 、一冊の本になるほどの詳細な意見書に仕上げて上呈しようというのである 。

 

この意見書のタイトルは「将及私言 」である。結局この願いは 、容れられた 。長州藩ではこの書を 、段階をへつつ藩主毛利慶親の手もとにまで達せしめている 。

 

さて12月、この時期松陰は始めて弟子のようなものをとる。名を金子重之助という。

 

とはいえ、松陰は師匠と呼ばれることを好まなかった。彼の書いた「師道論」には、

 

人間に師や門人という立場があるはずがない、みだりに師と言い 、弟子と言うことは 、第一古聖賢に対して無礼ではないか

 

といったことが書かれている。

 

さらに時を進める。

 

幕府代表は 、横浜において 、米使と二度にわたって会見し 、二月二十五日 、箱館開港の許可状をあたえ 、同二十七日 、下田と箱館の開港時期についてうちあわせをするという 、松陰の情念からいえばさんたんたる敗北におわった 。

 

激発する活動体と化していた松陰は「もはや密航しかあるまい」と考えた。かれにとって敵であるはずの米艦に投じ 、密航に協力してもらい、ひろく世界を偵察するのだ。

 

もちろん、100に一つも成功しないだろう。だが、成功不成功を論ずべきでないというのは 、この時代に普及した儒教的武士道であった。

 

そしてきたる3月27日、吉田松陰はいよいよ黒船への乗り込みを決行する。共に、弟子である金子重之助を連れて行った。

 

幸運にも砂浜には舟があった。もちろん松陰のものではない。それを盗んだ。波の上に落とし込み、すぐに乗って漕ぎ出そうとした。

 

ところが、櫓がはまらない。驚いたことに、櫓杭がなかった 。だがこの若者は失望を知らない。

 

「褌で櫓をしばればどうだろう…褌ではだめだ。では木綿帯ならば。」

 

失望を知らないものは、ただまっすぐ「では、どうすれば良いか」ということのみ、怒涛のように考える。この時の松陰はそれであった。

 

黒船に横付けしたときには、松陰は顔が蒼ざめるほどに疲労していた。

 

金子は、船上をあおいでどなった。

 

「お頼み申す 、当方 、ふたりでござる 。」

 

船上の夷人は、怪人物達の接近に心底驚いたであろう。

 

松陰は懐紙を取り出して、意思疎通のための漢文を書いて渡した。

 

「吾等ハ米利堅(メリケン)ニ往カント欲ス 。君幸ヒ 、コレヲ大将 (ペリ ー )ニ請セヨ」

 

やがて 、この艦隊の正式の通訳官であるウィリアムズという人物が やってきた。

 

「手紙でものべたように 、我等は世界を見たい 。アメリカへ連れて行ってもらいたい。 」

 

松陰は頼んだが、ウィリアムズは拒絶した。この拒絶はペリーの意思でもあった 。

 

ペリーは松陰の手紙もよんだし 、この甲板上のさわぎについても 、提督室にあってすでに報告をうけている 。

 

「拒絶されれば私どもは殺されましょう 」と金子は重ねて請願したが、通らなかった。

 

とはいえこの騒ぎを通して、ペリーは日本人というものに大きな衝撃を受けた。正式記録を借りると、

 

「この事件は 、日本人というものがいかにつよい知識欲をもっているかということの証拠として非常に興味がある 。かれらは知識をひろくしたいというただそれだけのために 、国法を犯し 、死の危険を辞さなかった 。日本人はたしかに物を知りたがる市民である 。」

 

結局、松陰、金子らは黒船を降ろされた。彼らは自首した。

 

二人は江戸へ送られた 。国家の大禁をおかした重大犯人ということで 、途中 、その檻送は厳重をきわめた 。

 

松陰はすでに生を捨ててしまっている。

 

この時の心境を書いた記録に、

 

「感きわまりて悲しみ生じ 、悲しみきわまりて大咲 (笑 )呵々」

 

とある。

 

感のきわまるところ悲しみが生じ 、その悲しみの底の底まで沈んで 、にわかに笑ってしまった 、というこの心事は 、禅でいうところの悟達人のそれである 。

 

牢名主という者がいる。もっとも獄中生活の長い者からえらばれた囚人の首長で 、獄内では囚人を殺すこともできるという絶対権力をにぎっている 。

 

牢名主は、

 

「おれの慈悲にすがらねばお前の命はないぞ」

 

と脅し、お仕置き役が松陰の首を掴んで、そのまま顔を板の間にこすりつけた。そのままキメ板をもって背中を打った。儀式であった。

 

だが、もはや命を捨てている松陰にとって、そんなものは通用しない。

 

「私は命を惜しむ者ではない 。すでに死を覚悟して渡海を決意した以上 、どこで死んでも悔いはない。」

 

その口調があまりに穏やかであったため、牢名主は、興味を持ち、なんの罪で捕まったかを質問し始めた。

 

「日本はいま滅びようとしている。」

 

そこからは松陰の独壇場であった。

 

「このときにあたって」と続く。

 

「攘夷々々と念仏のように国中の志士がとなえているが 、ことごとく観念論である 。

 

「空理空論のあげく行動を激発させることほど国を破ることはない 。」

 

「世の事に処するや 、人はまず物を見るべきである 。」

 

実物 、実景を見てから事態の真実を見きわめるべきである…この考えは英雄たる気質を持つ者に共通している。高杉晋作はもちろん、勝海舟坂本龍馬もその類であった。

 

「ここでいう物とはなにか、夷狄の国のことである。夷狄の国を見なければならない。」

 

「そのためにはたれかが海を渡らねばならない。海を渡ることは天下の大禁であり 、犯せば死をもってむくいられる 。しかし死をおそれては国家はすくうべからざる危地におちる…さればあえて渡海をこころみた。

 

牢の衆はみな感激してしまった。

 

やがて松陰は長州萩にある野山獄に身柄を移された。

 

松陰の松下村塾のおこりは 、かれが安政二 (一八五五 )年十二月十五日 、藩命によって野山獄を出され 、実家の杉家で 「禁錮 」ということになったときからはじまる 。

 

ここにおいて、ようやく高杉晋作を登場させることが出来る。

 

高杉晋作は長州萩城下の上士の子である 。明倫館という学校に通っていた。

 

17になる晋作は、学問や学校というものが 、自分の精神を戦慄昂揚せしめるものではないということに気付き始めていた。

 

余談であるが、本来 、学校というのは平均的な青年にとって十分な意味をもっている 。

 

もともと教育という公設機関は 、少年や青年というものの平均像を基準とし 、一定の課程を強制することによってかれらの平均的成長を期待しうるものとして 、そのような想定のもとに設置され 、運営されている 。

 

自然 、平凡な学生の成長にとっては学校ほど有意義な存在はないかもしれないが 、精神と智能の活動の異常に活潑すぎる青年、すなわち天才にとっては 、この平均化された教授内容や教育的ふんい気というものほど 、有害なものはないかもしれない 。

 

高杉晋作は、まぎれもなく、天才であった。彼は学校がたまらなくつまらなかった。

 

そんな中、学友であった久坂玄瑞に、松下村塾吉田松陰という先生を紹介されることになる。

 

これにより、吉田松陰という、「理念的思想」を実現しようとしてことごとく敗北した人間が、その信念の昇華を託すに相応しい、高杉晋作という天才的大器と出会うことになる。

 

つづく。

Fate/stay night [Heaven's Feel]III.spring songをレビュー~ Kの思索(付録と補遺)vol.108~

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Fate/stay night [Heaven's Feel]III.spring song(以下、HF)を観てきたので、前作に引き続きそのテーマをつらつらと書いていきたい。ネタバレがあるので、鑑賞後に読むことをお勧めする。

 

前作の記事を下に貼っておく。まずこれを読んでもらうと、以降もスムーズに読み進めて頂ける。

yushak.hatenablog.com


Fate/stay night [Heaven's Feel]のテーマは、つまるところ「正義のあり方」である。


それはFate zero(以下、zero)の衛宮切嗣から続くものであるということは、これまで繰り返し述べてきた。


おさらい的に振り返れば、これまで正義の形は以下のように語られてきた。


すなわち「誰も彼も救う」という形の正義は、理想的ではあるが実現困難であるということ。


この理由は、一方の正義が一方の悪になってしまうことによる。


これが、すなわち「どちらの船の客を救うか」というzeroにおける問いに現れた。(ちなみにこれは正義論講義において有名な「トロッコ問題」の置き換えである。)


切嗣や未来士郎(アーチャー)は、この問題を悩み抜き、「少数を犠牲にして大勢を救う」という道を選んだ。(ちなみにこの選択を功利主義と呼ぶ。反対は義務主義である。)


しかしそれは、やればやるほど理想に反していく。なぜなら「犠牲にし続けた少数が、いつしか救ってきた大勢の数を上回る」ことになるからだ。


ここに衛宮切嗣は挫折し、愛する人すべてを切り捨てるという結末に至った。最後に見ず知らずの士郎を救うことで、zeroからやり直すこととなる。


アーチャーである未来士郎においても、切嗣と同様の結末に至る事を知りながら、それでもその道を諦めずに行くことを選んだのであった。


そして本作のHFシリーズでは、どうか。


桜を殺してしまえば母体を消滅させることができ、大聖杯の完成を妨げ、冬木の悪夢の再来を抑えることが出来る。


しかし凛も士郎もそれをしなかった。桜を救って、大聖杯はそのままに取り置いたのだ。


ここにおいて正義の問題は極まる。


すなわち「救いたいたった一人を救うために、その他を犠牲にする」という正義の形がテーマとして描かれる。


繰り返すが、「世界を犠牲にして自分が救いたい人だけを助ける」ということ行き着くのだ。


お分かりだろうが、この考え方は、ともすれば非常に利己的な考えであり、この選択をした人は、この世界から最大悪として認められるだろう。


故に、こうなる。


誰もが認める正義の形を、個人が実現可能な形で目指していくと、それがいつしか、誰もが認める悪の形で決着する。………


もはやここに至っては、正義を成そうとする彼の行動そのものが、その他大勢にとっては悪であることになる。


どうすれば良いのか?


彼がいる限り悪が成るなら、彼はいなくなったほうが良いのではないか。


言峰綺礼が、衛宮士郎のことを、「自分と同一の裏返しである」と言及するのは正にこのことにおいてである。太極図の陰と陽のようなものだ。


「自分の理想を実現したい」という彼らの純粋すぎる「正義」において、それがどちらに向いていたかの違いでしかない。


衛宮士郎はみんなを救いたいという理想を向いていたし、言峰綺礼は大聖杯の完成によって新しい世界の誕生を達成するという理想を向いていただけである。


ただ、衛宮士郎の中にあって、言峰綺礼の中に無いものがある。


それが、「自己犠牲」である。


いわゆる英雄(ヒーロー)と呼ばれるものの多くが、この思想を持っている。自己犠牲を持ちつつ、何かを成そうとする姿に人は心を打たれる。


この思想を持たないままに自分の理想を実現しようとするものは、反英雄と呼ばれる。


さて、この問題を巡る正義と悪の一つの境界らしきものに、「自己犠牲」があることが見えた。


これが太極図における白と黒の区分けーー有るようで無い「空の境界」ーーである。


自己犠牲の究極はどこに至るか?

 

それは当然ながら、自分の死である。自らの理想の実現、使命の達成のために、自分の命を投げ捨てることである。


「どちらも救うために、自分が死ねばいい」という考え方である。


これは武士道そのものである。仁とか義とか誉のために、自らを犠牲にする道である。


ただし士郎のこの考え方は、散々と凛が注意していた。あなたは自分の命を顧みていなすぎて危険だと。もっと自らを大切にして欲しいと。


まずは自らを優先して救った後にしか、他人は救えないのだと。(ちなみにこの問題をさらに深掘りした作品として、化物語シリーズの「終物語」がある)


今作の最後に士郎が選んだのはそういう道である。


彼がイリヤの前で「生きたい!」と叫んだのは、自己犠牲の廃棄に他ならない。


「境界」を捨てて、英雄を捨てたのだ。


彼が救うのではない。彼が救われる道を選んだのだ。


これは彼という存在を構築するコアを捨てたようなものである。故に彼は生まれ変わらざるを得なくなった。


皆を救うという正義も、切嗣の目指した正義も、アーチャーの目指した正義も、全て捨てた。捨てた先にあったのは、英雄たることを捨てることであった。


英雄になることを辞め、一介の人間として、ただ一人に寄り添い、共に歩む。


浮き足立つ非凡であることをやめ、地に足をつけた凡として、一歩一歩進むことを選んだのだった。


この結末に桜が咲く。桜は散っていく。すぐにただの風景と化すだろう。特別なものは何もなくなり、誰も気に留めない。それが彼らの選んだ道である。

 

そうしてこの物語は幕を下ろす。

 

儚い祝福を桜にして、春はゆく。